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 おじいちゃんが死んだ時、ぼくは泣かなかった。

 にっこりと微笑んでいるおじいちゃんの写真の前で、みんなでお経を聞いている時も、棺がゆっくりと炎の中に運ばれていく時も、じっと前を見ていた。

 まわりの人は、ぼくを見て少し不思議そうな顔をしていた。強い子ね、とほめてくれる人もいたけれど、ちょっと怒っている人もいて、特に親戚のおじさんなんかは、情のない子だ、と言うとそれっきり黙りこんでしまったほどだ。

 でも、そんなふうに思われても、ぼくは泣くわけにはいかなかったんだ。だから、おじいちゃんが話してくれた物語を思い出しながら、一人で座っていた。

 かぐや姫。お月様のうさぎ。中でもオオカミ男の話はぼくのお気に入りだった。ときどきは自分で作った物語を、ぼくが眠る前に横で話してくれたけれど、いつもそれにはきまりがあった。

 絶対に、月が出てくるんだ。

 ネズミをネコから助ける話でも、勇者が魔王を倒す話でも、どこかに月が出てきた。海の中の話で、今日は月も出てこられないだろうって思っていても、いつのまにか、月の王様が海の王様に会いにきたりして、ぼくの予想は結局はずれた。

 ちょっと変わっていたけれど、おじいちゃんの作る物語は、どれも最高に面白い。続きは明日なんて言われたら、気になって夜も眠れなくなるほどで、夜更かししたぼくと一緒におじいちゃんもよくお母さんに怒られていた。それでも、その日の夜には、ぼくはおじいちゃんに話をねだったし、おじいちゃんも新しい話を用意してくれていたんだけど。

 いつか、物語のお礼をしようと思ったことがある。ちょうどその時、おじいちゃんの誕生日が近づいていてた。いつもなら肩たたき券なんかをあげていたんだけれど、今回は物語のお礼なんだから、そんなんじゃだめだった。

 食器を洗って、庭の草むしりをして、一生懸命にためたお小遣いを持って、ぼくは本屋に向かった。そこに、月の写真が印刷されているカレンダーがあるのを、前の日に確認しておいたんだ。それは、プレゼントにぴったりだった。だって、自分用にもう一つ買っておきたいって思ったぐらいピカピカ輝いていて綺麗だったんだから。

 でも財布の中には、当然のようにカレンダーを二つ買うお金なんて入っちゃいない。まあ仕方ないやってぼくは思った。プレゼントを用意できるだけで十分だ。

 本屋に着くと、急ぎ足でカレンダー売り場へ向かった。よくわからないんだけど、ちょっと嫌な予感がしていたんだ。そして、その予感は当たった。

 カレンダー売り場の前で、ぼくは動けなくなった。

 ああ、どうしよう、カレンダーがなくなってる!

 本当に、泣きそうになった。なんて運が悪いんだ。お金はあるのに、買おうと思ってたものが売れてしまったなんて!

 店の人に聞いてみたけれど、売れてしまったのが最後で、取り寄せるのにはとても時間がかかると言われた。そんなに待っていたら、おじいちゃんの誕生日が過ぎてしまう。

 結局、何も買わないままトボトボと家に帰った。どうしようもなく悲しくて、ただいまも言わずに、部屋に飛び込んでドアを閉めた。

 ご飯できたわよーとお母さんが呼びに来ても、いつもならぐうぐう鳴るお腹も、ほとんど空いていなかった。大好きなハンバーグを半分ぐらい残すと、お父さんはびっくりしていた。どこか具合が悪いのか、とぼくの顔を見る。薬をもってこようか、と言っているばあちゃんの横で、おじいちゃんも心配そうにしている。

 大丈夫だから、と言って部屋に戻った。それ以上、おじいちゃんの顔を見ていられなかった。布団にもぐりこんで、声が出ないように泣いた。

 とんとん、とドアが叩かれたのは、それから少したってからだった。涙はまだ止まっていなかったから、慌ててパジャマの袖で拭った。

 ドアの向こうから、入っていいかい? という声が聞こえた。おじいちゃんだ。できれば、今日はもう会いたくなかったけれど、きっとすごい心配しているんだろうと思うと、答えないわけにはいかなかった。

 ゆっくりとドアを開けて顔だけをのぞかせたおじいちゃんに、入っていいよ、と声をかけた。なぜか腕を後ろに組んで、何かを隠しながら入ってくる。

 何それ? ぼくはどうしても気になって聞く。涙はもう乾いていて、逆にワクワクとした気持ちが大きくなっていった。

 さあ、何だろうね。でも、泣き虫には教えられないかな? 

 おじいちゃんは、ぼくが泣いていたことも全てお見通しだった。ぼくは意地になって、泣いてなんかいない、泣くもんかと言った。

 うーん、そうかなあ。信用できないなあ。

 ニコニコしながら、おじいちゃんは言う。

 もう泣かないよ、絶対に泣かない、そう言ってから、今まで泣いてたことが完全にばれたのに気づいて赤くなった。

 でも、おじいちゃんはそう言ったぼくを嬉しそうに見てから、じゃあこれはごほうびだな、と後ろから、何かを取り出した。

 わあ、とぼくは思わず叫んでた。

 キラキラと光る、すごいきれいな月が、おじいちゃんの手の上にあったんだ。

 それは、カレンダーの月と同じくらい、ううん、それ以上にきれいだった。

 最近、お手伝いを頑張っているとお母さんに聞いてなあ、何か欲しいものがあったんだろう?

 ぼくはうなづく。

 今日はそれを買おうと思っていたけど、売り切れていた。どうだ、おじいちゃんの推理はあたってるだろ?

 すごいすごいと、ぼくは驚く。

 ユウのほしいものにはかなわないかもしれんが、これで我慢してくれないかな?

 おじいちゃんは、すっと月を差し出す。よくよく見ると、月は紙粘土でできていて、絵の具で丁寧に塗った後に、ニスがつけられていた。とてもよくできているけど、手作りなんだ。

 ぼくはとても嬉しかった。でも、同時にとても悲しかった。

 だって、そうだろう? 本当はおじいちゃんにプレゼントをあげるはずだったのに、逆にもらっているんだから。

 そんな複雑なぼくの顔を見て、おじいちゃんは悲しそうに言う。

 気に入らなかったかなあ。ユウの笑った顔が見たくて一生懸命に作ってみたんだが、おじいちゃん不器用でなあ。期待させて悪かったなあ。

 おじいちゃんは、頭をふりながら部屋を出て行った。その後姿はとてもさびしそうで、ぼくの胸はずきんと痛んだ。

 その時からだ。ぼくがおじいちゃんの前ではずっと笑っていようって思ったのは。

 けんかして帰って来ても、転んでも、お母さんに怒られても、おじいちゃんに会う時はいつも笑顔だった。

 ぼくの笑った顔を見るたびに、おじいちゃんは言うんだ。ユウの笑顔は最高だなあって。

 ――だから、ぼくはおじいちゃんが死んだ時も泣いちゃいけなかった。涙がこぼれそうになっても、上を向いてなくちゃいけなかったんだ。

 

 でも、今その約束を破りそうになっている。

 おじいちゃんのことを思い出して、おじいちゃんに帰って来てほしくて、涙が止まりそうにないんだ。

 一緒にここにいられないことが、すごく悔しい。

 話をしてあげられなくて、とても悲しい。

 だって、おじいちゃんなら、誰よりも喜んでくれるだろうから。

 

 今、ぼくは月に向かって歩いている。

 

 

 

 七不思議なんてでたらめに決まってる! と言ったのはぼくだ。そして、じゃあ確かめてみようじゃないか、と言ったのはタケル。シンジはいつものように特に賛成も反対もしなかった。

 だいたい、幽霊なんかがいるんだったら、もっとたくさんの人が見ていてもいいはずだ。だって、死んでしまった人が幽霊になるんだから、今生きている人の何十倍の数の幽霊がいたっておかしくない。それなのに、誰かが見たなんていう噂ばっかりで、本当に幽霊を見た人には一度も会ったことがないっていうのは、すごく変だ。

 

 一度家に帰って、お母さんに、今日はタケルのうちに泊まるから、と言ってから学校へ向かう。タケルとは幼馴染で、昔からよく泊まりに行っていたからお母さんもすぐに納得してくれて、みんなで食べなさいって今日焼いたばっかりのクッキーまで持たせてくれた。学校で夜まで待っているうちにお腹もすくだろうから、ちょうどいい。ぼくはクッキーの入った袋をランドセルの中に押し込んで、走った。

 

 学校に着くと、タケルとシンジはもう来ていた。

 おそーい、とタケルがぼくの頭を叩く。

「ごめんごめん、タケルが一番?」と聞くと、

「いや、シンジ」

 とちょっと困ったように言った。

「じゃあ、タケルだって遅いんじゃないか」とお返しに首の後ろにチョップをする。

 しばらく、叩いたり、叩かれたりを繰り返していたら、シンジがぼそり、とつぶやいた。

「そろそろ、学校に入らないとまずいんじゃない?」

 そうだ、ぼくらは学校に忍び込みに来たんだった。夜になると校門が閉まって、遅くまで残っている先生方用の玄関の他は入るところがなくなってしまう。そこから入るのは、とても難しい。いつ先生に見つかるか、わからないからだ。

 だから、ぼくらは考えた。そして、答えを見つけた。

 入れないんだったら、最初から入っていればいいんだ!

 体育館には、用具を入れる場所が二つあるんだけど、片方はほとんど使っていない。運動会の時に大玉や綱をだすだけだった。そこは、いつも鍵がかかっているから、見回りの先生が中を見るってこともないし、絶好の隠れ家だ。まあ、普通だったら鍵を持っていないぼくらも入れないんだけれど、今日は違った。

 ガタン、という音を立ててドアが開く。

「ほら、やっぱり開いた開いた」

 タケルが嬉しそうに言う。おとといぐらいから、ずっと開いているんだという。きっと、先生の誰かが何かを取り出して、そのまま閉め忘れたんだろう。ぼくらにとっては、最高のチャンスだ。

 すげーだろ、と大威張りのタケルだけど、このドアが開いていることを見つけたのは、いつも一緒にいるシンジだ。でもシンジは、ぼくがみつけたんだ、とは言わない。いつものことだけれど、そんなふうに自分の意見を言ったりしないシンジが、ぼくは少し嫌いだった。

 用具室の中は薄暗くて、夕日が小さな窓から差し込んでいる。もう少しすれば、真っ暗闇になってしまうだろう。

「シンジ、懐中電灯持ってきたか?」

「うん、これ」

 シンジは棒のようなものを差し出す。

「バッカ何やってんだよ! 一番大きいの持ってこいって言ったのに」

 タケルがごつんとシンジの頭を叩く。ぼくとふざけて叩き合ったときより何倍も痛そうで、シンジの目からも少し涙がこぼれていた。でもこれが一番大きかったから、とぼそぼそと言う。

「しかたねえなあ。これで、我慢するしかないか。そういえば、ユウ今何時?」

「ちょうど七時だよ」

 ぼくはぼんやりと光る腕時計を見て答える。

「何時から見て回る?」

「そうだなあ。階段の月鏡は夜中の二時に見なきゃいけないから、その前に他のところは行っときたいな。一二時になったら先生方も帰ってるだろうから、それまで待ってようぜ。シンジ、何か食うもの持ってきただろうな?」

 シンジがビクッと震える。きっと、忘れてたんだ。

「ああ、それならぼくが持ってきたのがあるから」

 クッキーを取り出して、二人の前に広げる。別にシンジをかばうつもりはなかったけれど、また目の前で叩かれたら気分が悪い。

「へぇ、もしかして手作りか? やるじゃん」

「ぼくが作ったわけじゃないけどね。けっこう美味しいと思うよ」

 クッキーはほとんどタケルのおなかの中に入った。満足げにお腹をさすりながら言う。

「じゃあ、おれはちょっと寝るわ。おい、シンジ一二時になったら起こせよな」

 ばたんと倒れると、すぐにイビキをかき始めた。あまりに早すぎて、漫画を見ているみたいだ。

 タケルが眠ってしまうと、残ったのはぼくとシンジの二人。だいたいふだん一緒にいてもほとんどしゃべることなんてないんだ。なんとなく、気まずい空気になる。どちらも薄暗い中で、じーっとコウモリみたいに動かない。

「……ぼくも、寝るね」

 我慢の限界がきて、ぼくは言った。実際、お腹がふくれたらけっこう眠くなってきていて、横になればすぐに眠れそうだった。体育のマットでベッドを作って上に転がる。かたいけれど、ぜいたくは言ってられない。

 羊を一匹も数えないうちに、あくびがでて、ぼくはとろとろと眠りの世界に入っていった。

 

 

 

 どこか別の世界に吸い込まれる怖い夢を見て、ぼくはバサッと飛び起きた。周りはもう、真っ暗だ。

 みんなはどこだ?

 窓からもれる月の光を頼りに、辺りを探す。タケルもシンジもいない。もしかしたら、まだ夢の続きなのかな、と一瞬思ったけれど、マットの横にタケルが書きなぐったメモが置かれていた。

『起きないから、先に行ってる』 

 時計を見ると二時まであと少しだ。自分でもあきれるぐらい良く寝ていたみたいだ。後で先生に見つかるとまずいから、メモとクッキーの食べ残しを回収して、立ち上がった。

 幽霊はいない、とは思うけれど、やっぱり夜の学校は気味が悪い。早くタケルたちに追いつきたかった。

 用具室のドアを開けると、黒一色の体育館。それでも、月の明かりがあるので、なんとか出口まではたどり着けた。

 さあ、問題はタケルたちが、今七不思議のうちのどのへんを見に行っているか、ということだ。

 月鏡が一番最後、と言っていたので、残りは六つ。音楽室のウィンクするベートーベン。理科室の毎日やせていく人体模型にトイレの佐藤さん。校庭を一〇〇メートルダッシュしている二宮金次郎の像は、最近運動のしすぎで足に筋肉がついてきたっていう噂まで流れている。二階の開かずの扉にいたっては、最近倉庫に使われているっていうから、ひどい話だと思う。

 あれ? そう言えば体育館ってダンクをする幽霊がいるとか……?

 思わず後ろを振り返ったけれど、何もいない。当然だ。幽霊なんているわけないんだから。それでも、暗い体育館にいつまでもいるのは気持ちが悪いので、とりあえず歩き出した。

 途中で、歩き回るより月鏡の場所で待ってた方が確実だと思ったぼくは、鏡のある階段へ向かった。ろう下には何もいなかったはずだから大丈夫だ。いや、別に信じているわけじゃないけど。

 月のあかりでぼんやりと見えるろう下を階段に向かってすすんだ。鏡のある階段には、窓がついているので、真っ暗というわけじゃない。むしろ月にてらされて、何だか不思議なふんいきがただよっている。昼間見る鏡とは、全然違う。ただ、怖いという感じはしなかった。

「早く来ないかなあ」

 先に試してみたら、タケルはやっぱり怒るだろうか。でも、ただ待っているのは退屈だった。

「もう二時だし、遅れた方が悪いんだよね」

 ぼくはついつい、鏡に手を伸ばした。前に手を出したぼくの姿が鏡に映っている。

「どうせ、うそなんだから――」

 そう言いながらも、手が鏡に近づいた時は目をつぶってしまった。

 ゆっくりと鏡へすすむ。

 ゆっくり、ゆっくりと。

 なぜか、いつまでたってもカツンという鏡にぶつかる音がしない。こんなに離れていたかな?

 遠くの方から、タケルの声が聞こえた。

「ああ、タケル。ぼくはここだよー」

 そう言いながら目を開けようとしたけど、なかなか開かない。いつまでたっても暗闇の中だ。

 ――違う! もう開いているんだ!

 そう気づいた時には、ぼくは闇の中に投げ出されて、そのうち意識もぼんやりと何も考えられないようになっていった。

 

 

 

 どのくらい時間がたったのかたったのかわからない。もしかしたら、二、三秒しかたってないのかもしれないし、一日過ぎたよと言われたら、納得してしまいそうだった。

 ぼくは、まるで巨人がごみを捨てるように、突然ぽいっと放り出された。上手い具合に前転できたので、体操選手みたいにぱっと立ち上がる。目をつぶったまま、しばらくそのままじっとしていた。タケルやシンジの拍手が聞こえてこないか、と思って――ううん、本当のことを言おう。

 ぼくは怖かった。だって、鏡の中に吸い込まれたんだ。しかも、タケルが集めてきた七不思議の噂では、別の世界に飛ばされてしまうと言う。鏡に吸い込まれるのが本当のことだったんだから、別の世界ってのも、もしかしたら本当のことかもしれない。もう、そんなの嘘だって笑い飛ばすこともできやしなかった。

 目を開けたとき、大きな怪物が口をあけて待っていたらどうしよう。その怪物は、きっとちっぽけなぼくのことを餌としか思わないんじゃないだろうか? あるいは、戦いのど真ん中だったら、ピストル、いや、光線銃みたいなもので、ぼくの身体は一瞬で蒸発しちゃうのかも!

 心臓がバクバクなって、力いっぱいつぶったまぶたがブルブル震える。

 神様!

 ぼくは、生まれて初めて神様に祈った。いつも、神様なんていないと思ってたし、おばあちゃんに貰った数珠も押入れの中でほこりをかぶっているというのに、そうせずにはいられなかったんだ。誰にも助けてもらえない時、人間ってけっこう簡単に神様を信じちゃうのかもしれない。急いでこしらえたぼくの神様に精一杯祈る。

 どうか、目を開けたら元の世界でありますように。

 

「あなた、さっきから何やってるの?」

 突然かけられた声にビクンと驚いて目を開けてしまった。

 あれ?

 とにかく怖いものを想像していたぼくの前には、シンジと見たことのない女の子が立っていた。ぼくに話しかけてきたのは、その女の子みたいだった。何故か、タケルの姿はない。

 周りを見回すと、ぼくの通っている学校なんだけど、どこかおかしい。階段だってそっくりだし、壁も同じように白い。鏡だって――。

 鏡!

 そうだ、月鏡はどうなってるんだ? また、触ったら吸い込まれてしまうんだろうか? それとも、そもそも吸い込まれてなんかいなくて、全部がタケルの意地の悪い冗談なのかもしれない。

「だから、何やってるのって聞いてるのよ」

 鏡をもっとよく見ようと顔を近づけたぼくの横から、ニュッと細い手が差し出される。

「ああ! だめだよ、鏡に触っちゃ!」

 思わず大きな声を上げたけど、女の子は平気な顔をしてペタン、と鏡に手をつく。

 吸い込まれちゃう!

 その瞬間を見ていられなくて、ぼくはまた目をつぶった。

 けれども、いつまでたっても悲鳴も何も聞こえてこない。

「この鏡がどうかしたの?」

 恐る恐る目を開けると、女の子はコンコンと鏡を叩きながら言った。

「……何ともないの?」

「何ともないって、ただの鏡でしょう? 別に怖くないじゃない。ねぇ、シンジだってそう思うでしょ?」

 ぼくも、触ったり叩いたりしてみたけど、何も起こらない。やっぱり吸い込まれたと思ったのは、気のせいだったんだろうか?

 そこで、ぼくはやっと気が付いた。色々悩まないで、ずっと見ていたシンジに聞けばいいんだ。タケルがいないのと、その代わりのように女の子がいるのは不思議だけど、タケルは帰ったのかもしれないし、ぼくらみたいにたまたま今日の夜、学校に忍び込んだ子供が他にもいたのかもしれない。とにかく、シンジだ。それで、全て解決。

「シンジ、タケルはどこいったの?」

 ぼくは、とりあえず一番気になっていたことを言った。大丈夫だとは思うけど、怪我なんかしていたら嫌だ。学校に勝手に入ったこともばれてしまうし、怪我人は怒れないから、その分ぼくとシンジがこっぴどくしかられることになる。もしかしたら、女の子も。

 でも、答えたのはシンジじゃなかった。

「タケル? 誰? あなたのお友だち?」

「うん、ぼくもだけど、そこにいるシンジも友だちだよ」

 正確に言えば、友だちというよりは、親分と子分。もっと悪くてご主人様と奴隷かもしれない。でも、ぼくはそれ以上は言わないでおいた。

「へぇ。シンジも知ってるんなら言ってくれればいいのに」

 シンジはしばらくぼくのことをポカンと眺めていたけど、やがてぼそりととんでもないことを呟いた。

「……そんなやつ知らない」

 どういうことだ? もしかして、タケルに付いていくのが嫌になって、知らないふりをしているんだろうか? 確かにそれは、十分にありえる話だけれど。

 ただ、不思議なのはシンジが嘘をついているように見えないことだ。気の弱いシンジは、どんな小さな嘘をついてもそれを隠してはおけないタイプだった。いつか、間違ってぼくのお菓子を食べてしまった時は、がくがくと震えだして一分ももたなかったほどだ。

「シンジも知らないみたいだけど……」

 女の子は疑わしそうに、ぼくを見た。もしかして変な奴かもしれないって考えている目だ。

「そんなはずはないよ! シンジ、覚えてるだろ。ついさっきのことなんだから。タケルとシンジとぼくの三人で、学校の七不思議を調べようって学校に忍び込んだんじゃないか!」

 実際にあったことを言っているだけなのに、何故か女の子もシンジも変な目をしている。 やがて、ふぅっとため息をつくと女の子が話し出した。

「いい? あなたは、シンジとそのタケルっていう人と一緒に学校に来たって言っているけれど――」

「そうだよ、間違いない!」

 必死に説明するぼくに、とどめの一撃を放たれる。

「でも、シンジはわたしと一緒にいたのよ。もちろん、学校に忍び込む時も一緒に、ね」

 

 ぼくはあ然となった。女の子はまだ続ける。

「それに、七不思議って何? 聞いたこともないわ。わたしたちは、学校で飼っているドラゴンの様子が気になって見にきただけなんだから」

「え? 今なんて言ったの?」

 ただでさえ打ちのめされていたぼくの耳に、変な言葉が飛び込んできた。よくきく言葉には違いないんだけど、使い方がとても変だ。よりによって、学校で飼っているだって!

「ドラゴンのこと? あなたもうちの学校に通ってるんだったら、知ってるはずだけど。一カ月ぐらい前に動物園から運ばれてきて、珍しい動物だからってしばらく大騒ぎになったでしょ」

 そう言ってから、何かに気づいたみたいに女の子は考え込む。

「変ねぇ。本当に知らないの? もし、ここの生徒じゃなくても近くに住んでいるんなら絶対誰かに聞いているはずなのに。テレビにだって映ったし、新聞なんてすごい大きな写真を載せたのよ」

 そんなこと言われたって、知らないものは知らない。というよりも、世界中どこを探したってドラゴンなんていないはずだ。ゲームや漫画の中なら、嫌になるほど見ているけど。

「ドラゴンってどんな生き物?」

 そういえば、外国ではとんぼのことをドラゴンフライって言うらしい。前にお父さんがどうだ、強そうだろって喋っていたのを思い出した。でも、とんぼぐらいで大騒ぎになるんだろうか? よっぽど珍しいのかな。

「……本当に知らないの? ここにいるドラゴンじゃなくて、他の場所で飼われているののは?」

「もしかして、ドラゴンってとんぼのこと?」

「とんぼは、とんぼじゃない。ドラゴンとは全然違うわ。大きさも、そして強さも」

 女の子は黙ってしまった。しきりに何かを考えているみたいだった。ぼくの方は、というと、どうしてよいのかわからず、周りをウロウロするだけ。

 シンジがシンジじゃなくて、とんぼじゃない大きなドラゴンがいる。本当に別の世界に来てしまったんだろうか? 心の中にはきっとそうだ、という自分が九人いて、まだわからないぞ、という自分はたった一人。その一人も、そろそろ覚悟を決め始めている。

「あー、もう! 全然わかんない! あなたがなんでドラゴンを知らないのかも、シンジのことは知ってるって言いはるのかも」

 結局、女の子はそう言って頭をふった。

「鏡ばっかり気にしてたけど、まさかそこから出てくるわけないわよね?」

 はい、実はそうなんです、と言いそうになったけど、慌ててぼくは言葉を引っこめた。女の子の目には、そんな馬鹿なことあるわけない、と書いてある。幽霊を信じていなかったぼくも、きっと同じような目をしていたんだろう。正直に言ったところで、信用してもらえそうにない。そう思ってしまうような目だった。

「はぁ。まあいいわ。さっき言ったけど、わたしたちはドラゴンの様子を見に来たの。あんまり時間がかかったら、朝になってみんなが来ちゃうから、そろそろ行くね」

 行こうシンジと言って女の子は歩き出す。ぼくは慌てた。このまま、ここにいてもどうしようもなかった。鏡は全然反応しないし、何よりよくわからない世界で一人ぼっちっていうのはとても怖い。

 もしかしたら、月鏡は決まった時間にしか動かないのかもしれない。そう言えば、タケルも二時に行く、なんて言っていた。明日また来ればいいんだ。そう言い聞かせて、ぼくははなれていく女の子に声をかけた。

「ま、待って。ぼくも連れてって!」

「……いいけど、家に帰らなくて大丈夫なの? けっこう時間かかるわよ」

「今さら帰ったってたいして変わらないよ。それに、うちの親はぼくのことあまり気にしてないから、二、三日いなくたって平気なんだ」

 もちろん、そんなことはない。お父さんもお母さんも、ぼくが帰らなかったらすごい心配するし、今回学校に忍び込んだのだって、ばれたらどれだけしかられるか想像がつかない。でも、今はこう言っておいた方が都合がよかった。

「うわあ、それ本当? ちょっとうらやましいなあ。わたしなんか、今日のことばれたら、きっと半年はお小遣い抜きよ」

「じゃあ、きみは今日はどうやって来たの?」

「……ぼくの家に泊まるって」

 答えたのは、シンジだ。どうやらぼくの知っているシンジとは別の人間みたいだけど、こういうところはそっくりだった。ぼそぼそと消えるような声で喋るのは、聞いていてイライラしてくる。

「シンジのうちはとても広いし出口がいっぱいあるから、夜抜け出しても気づかれにくいの。布団の間にはクッションを詰めてきたから、ちゃんとわたしたちが寝ているようにみえるしね」

「おっと、ゆっくり話してる場合じゃないわ。そろそろ行かないと」

 そうだ、付いてくってことは、ドラゴンを見るってことだ。ちょっとワクワクする。でも、元の世界に帰りたいっていう思いはそれ以上に強くて、もう一度だけ鏡を撫でた。

 鏡は、情けない顔をしているぼくの姿を映すだけだった。

 

 

 

 ドラゴンが飼われている場所に向かう途中、ぼくたちは自己紹介をした。いつまでも、あなたとかきみなんて呼び合っているのは、ちょっと嫌だ。

「じゃあ、まずわたしから。名前は、ハルカって言うんだけどシンジは縮めてハルって呼んでる。ここの学校に通っていて――ってこれはわかってるか。うーん、あと趣味は空中散歩かな」

 まただ。ドラゴンのことを聞いて覚悟はしていたんだけど、やっぱりさらっとは聞き流せなかった。ぼくの様子に気づいて、ハルカは目を見開いて驚く。

「うわー、空中散歩のことも知らないの! まあけっこう最近できた遊びだから、山の中に住んでいたとか言うならわからなくもないけど。ええっとね、まだわたしは自分一人の力では飛べないから、靴に力を貯めといて使って……」

 ハルカは、仕組みについて詳しく説明してくれたけど、一〇分の一も理解できなかった。

「……要するに、空飛ぶ靴ってわけ」

 たぶん、鏡に吸い込まれなかったら、ドラゴンや空飛ぶ靴なんてものには、一生出会わなかっただろうな。これが、幸運って言えるのかどうかはよくわからないけど。

「わたしの自己紹介はこれぐらいかな。次、シンジね」

 廊下の突き当りを曲がりながら、ハルカは言った。

 それにしても、似ているなあ。

 ハルカに続いて曲がりながら思う。廊下の広さなんかはちょっと違うけど、ぼくの学校とそんなに違いはない。ドラゴンを飼っているという場所は、この様子だとウサギ小屋があった辺りみたいだ。

 ぼんやりと眺めているぼくの耳に、シンジの声が届く。

「名前はシンジ。趣味はロボット作り」

 ちょっと安心する。わりと普通の趣味だ。ぼくだって、夏休みの工作でロボットぐらい作ったことがある。腕にモーターをつけて回転するようにしたら、コンクールで銀賞をもらえた。タケルたちも感心して、触らせてくれとねだったり、しばらくはちょっとしたヒーロー気分だった。

「シンジのロボットはすごいんだから。ちゃんと話すし、命令したら色んなことをやってくれるの。大人の作るやつみたいに難しいことを考えることはできないけど、頭だっていいのよ。この前はシンジがいなかったから、代わりに宿題教えてもらったわ」

 ふぅ、とため息をつく。やっぱり、普通じゃない。いや、ぼくの世界では変なことでも、ここでは全然不思議じゃないんだ。

 次はあなたの番よ、とハルカがぼくをつついた。こんなすごい自己紹介を聞いた後で、ぼくは何をすればいいんだろう? 変身の魔法が得意です、とでも言っておこうか?

「えーと、ぼくの名前はユウ。趣味は……」

 最後まで言い終わらないうちに、ハルカの声が聞こえた。

「さあ、着いたわよ」

 ハルカもシンジもドラゴンの方ばかり気になって、自己紹介のことはすっかり忘れてしまったようだった。ちょっとひどいとは思ったけど、この方がいいかもしれない。趣味のことはあまり話したくなかったし、何よりぼくもドラゴンを早く見たい。ここまで、色々不思議なことを聞かされてきて、別の世界に来たってことも納得しかけているのに、まだドラゴンなんていないんじゃないかっていう考えが頭の中から消えない。見てみたら、案外ドラゴンていう名前の犬だったりして。

 でも、ハルカとシンジが向かった場所を見たら、そんな考えは吹き飛んだ。

「ここに、ドラゴンがいるわ」

 そう言って、ハルカが指差したのは、体育館ぐらいはありそうな建物だった。高さだけだったら、それ以上だ。ウサギ小屋があった場所は元々サッカーをできるぐらいの広さがあったのに、ここでは全て建物で埋まっていた。ウサギは小さいから小屋も小さくてすむ。ということは、この建物にすむ生き物は、このぐらいの大きさがないと飼えないってことだ。

 ぼくは、ぶるっと震えた。

「何? 怖いの?」

 ハルカがいたずらっぽい笑顔になる。シンジもつられたようにクスリと笑った。

「いや、そんなんじゃなくてさ、その、本当にドラゴンがいるって思うとなんかドキドキして」

「だから、さっきから言ってるじゃない。ここにドラゴンがいるって。何がいると思ってたの?」

「うん、ごめん。ちょっと信じられなくて。でも、この建物を見たら……」

「信じる気になった?」

「うん」

「でも、どこから入るの? 入り口は鍵がかかっているだろうし」

 なんと言ってもドラゴンが入っているんだ。針金なんかで開けられる安物の鍵じゃないだろう。

「入ったりなんかしないわよ。危ないでしょ」

 ゲームに出てきたドラゴンを思い出す。

「え……まさか、火をふいたり、人間を食べたりするとか」

「ドラゴンはやさしい性格だからそんなことはしないけど、間違って踏みつぶされるってのはあるかもしれない」

 うっかりぺっちゃんこにはなりたくない。

「窓があるから、そこから中をのぞけるわ」

 シンジがどこからかはしごをもってきて立てかけていた。上に顔より少し大きいぐらいの窓がある。

「シンジ、今何時かわかる?」

「三時一分前」

「……そろそろね」

 何がそろそろなのかと思ったけど、その答えはすぐにわかった。

 ゴオオオォォォォ。

 建物の中から、ものすごい風のような音が聞こえてきた。

「始まった!」

 ハルカの目がきらりと光った。シンジちょっと押さえてて、と言うとひょいっとはしごにのぼる。

「何か変わったことあった?」

 そう聞くシンジもドキドキする気持ちを隠せない、というふうに見える。さっきまでボソボソ喋ってたやつとは思えない。

 もちろん、ぼくも二人以上に胸が高鳴った。何しろ本物のドラゴンを知っている二人と違って、作り物をテレビで見ていただけだ。

「ぼくにも見せて!」

 そう言うと、ハルカがはしごからおりてきて、シンジの代わりに支えてくれた。

 すごい! ぼくは今ドラゴンを見ようとしているんだ。

 心臓がはちきれそうだった。踏み外さないようにしっかりとはしごをのぼって、窓に顔を近づける。

 最初は、うすぼんやりと光っていて、何がいるのかよくわからなかった。でも、だんだん目が暗闇に慣れてくると、大きなものがずるずると床をはっているのが見えた。

 ――蛇? 

 さらに、目をこらすと足があった。恐竜みたいに左右に一本ずつ。ひきずっているのは、どうやら尻尾のようだった。

「どう、見える?」

 はしごの下からハルカが言う。

「うん、うん」

「はい、ライト」

 ハルカがぐいっと手を伸ばして、細い棒みたいなものを渡してくれた。

「ありがとう」

 よく見ずにそれを受け取り、手探りでスイッチらしいボタンを押す。パアッと驚くほどの光があふれた。ライトっていうより、小さな太陽だ。

「気をつけて。あまり目に近い場所に当てたら、ドラゴンがおびえるから」

 そんなこと言われても、光が大きすぎて、どこに当ててもあまり変わりはなさそうだった。ドラゴンのからだが暗闇の中から浮き出る。

「うわあ!」

 ぼくは叫んでいた。

 間違いなく、ドラゴンだ! 

 ただ、想像していたのはちょっと違った。うろこがついているはずのからだには、びっしりとふわふわの白い毛が生えている。足にも、顔の周りにも、だ。そのせいかもしれないけど、こっちをふり向いたドラゴンはとてもやさしそうに見えた。白い毛の中にうもれた目は、どうしてかはわからないけれど、三年前に死んでしまったおじいちゃんに似ていた。とても、おだやかな目だ。

 ふいに、ドラゴンの口がガバアと開いた。餌でも食べるのかな、と思っていると、さっきの風の音がまた聞こえてきた。

 ゴオオオォォォォ。

 鳴いていた。風かと思っていたのは、ドラゴンの鳴き声だったんだ。

 天井の方を向いているのでぼくも少しかがんでみると、上は透明になっていた。まさか、開いているわけはないだろうから、ガラスか何かをはっているんだろう。空に、たくさんの星と、月があった。

 月に向かって鳴くドラゴン。

 その姿は、なぜか悲しそうに見えた。

「早く交代しろよ」

 はっと気づくと、シンジが下でにらんでいた。ちょっとムッとしながらも答える。

「うん、わかった。次はぼくが支えるよ」

 もう少し見ていたかったけど、ハルカに聞いてみたいこともあったのでおとなしくはしごをおりる。下でしっかりとはしごのあしを持った。

「ねぇ、すごかったでしょ?」

「うん。すごすぎて、何て言ったらいいかわからないよ」

「だって、うちのドラゴンは世界中で数匹しかいないルナドラゴンだもん。すごくて当然! ほんと来たころは大騒ぎだったのよ。今でも昼間はおおぜい人が見に来るわ」   ハルカは自分のことのように嬉しそうに言った。

「あの白い毛が生えてるのってルナドラゴンだけ?」

「他のドラゴンでも毛は生えてるんだけど、だいたいが緑色なのよ。白いのはたぶん、ルナドラゴンだけだと思う。ルナっていうのも、毛が月みたいに白いからってつけられた名前だっていうしね」

 シンジは何も言わず、じっと中をのぞきこんでいる。ぼくはしばらく迷ってから、ハルカに聞いた。

「ねぇ、さっきドラゴンの様子が気になって見に来たって言ってたけど……」

「ええ、言ってたわ」

「もしかして、この鳴き声も関係ある?」

 ぼくも気になっていた。犬なんかもよく遠吠えをするけど、あれとは絶対に違うんだ。ドラゴンは月に向かって鳴いていた。悲しそうに。

「やっぱりユウも気がついてた? だいたい当たってるわ。別に月に向かって鳴くのはおかしくないらしいんだけど、その……鳴き声が変だっていうの」

「そう。変なんだよ」

 そう言ってはしごから降りてきたシンジは、完全に別人に見えた。生き生きと説明を続ける。

「ルナドラゴンは月を見て嬉しくて鳴くんだ。美味しい餌を食べてる時と同じさ。前に見たことがあるんだけど、その時はもっと高い声で歌を歌うみたいに鳴いてた」

「もしかしたら、病気?」

「ちょっとは頭使いなよ。病気だったらいつまでもこんな所にいないよ。とっくに設備の整った施設に行ってるさ」

 ハルカが心配そうに聞くと、シンジは馬鹿にしたように答えた。いつも、おとなしいシンジしか見たことがないせいかもせれないけど、なんか変な感じだ。上からおしつけるような言い方は、ちょっとカチンとくる。

「じゃあ、どうして?」

 次はぼくが聞く。シンジに教えてもらうのはしゃくな気もしたけど、今のシンジは不思議と自信満々で尋ねずにはいられなかった。

「さあね。ぼくにだって本当のことはわからない。ただテレビで見たんだけど――あのドラゴンの鳴き声、仲間が死んじゃったときの声にそっくりなんだ!」

 

 

 

 やっぱり、あのドラゴンは悲しんでた。でも、何を悲しんでたんだろう?

 月で仲間が死んでしまったのか、もしかしたら月まで飛んでいきたくなったけど、無理だとわかって鳴いているんだろうか?

 そこまではシンジも想像がつかないようで、ブツブツと何か言い訳をつぶやいていた。

 しばらくすると、ドラゴンの鳴き声はとだえた。ハルカが言うには、小屋から月が見えなくなると、鳴くのをやめるのだという。やっぱり、月には何かがあるんだ。

 もやもやとしたものが残っていたけど、時間も四時を過ぎていたので、とりあえず帰ろう、ということになった。

「ユウはどうするの?」

 そうだった! ぼくはこの世界では帰るところもないんだ。鏡の前に居座る元気もないし、第一お腹がすいたらどうすればいいんだろう? お金だって持っていない。前に、お母さんが小さい頃火事があって、着の身着のままで逃げたんだって言っていたけど、ちょうど今のぼくもそれと同じだ。

「家にはあんまり帰りたくないんだ」

「そっかー、ユウのお母さんたちって全然ユウのこと気にしてくれないって言ってたもんね。もしよかったら、私たちと一緒に来る? 歓迎するわ」

 と言ってから、ハルカはふと気づいたように頭を叩いた。

「あ、私、今シンジのうちに泊まってることになっているんだった。どうしよう」

 朝起きたときに子供部屋にいる人間が三人に増えてたら、さすがにシンジの親もびっくりしてしまうだろう。最悪の場合、警察が来るかもしれない。警察に捕まったりしたら、学校にも簡単にはこれなくなってしまう。それは、困る。今日はもう鏡のところには行かないけれど、明日にはまた試してみるつもりだ。

 この世界は面白いけれど、元の世界に戻れないなんて冗談じゃない! 

 そんな時、意外にもシンジが救いの手をさしのべてくれた。ただ、ドラゴンの時みたいに生き生きとした声じゃなくて、蚊の鳴くような声だった。

「七時くらいまで部屋で一緒にいて、それから玄関から遊びに来たことにすればいい」

「うん、それなら大丈夫だわ。ただ、そうなるとあまり寝ないまま、私たちの旅行にも一緒に行ってもらうことになるけど」

「旅行?」

 ハルカがにっと笑う。シンジも嬉しそうだ。

「そう、私たちが前から計画してた旅行よ。シンジのうちに泊まるのは、実はその旅行に行くためっていう目的もあったの。ううん、どっちかと言うと旅行がメインかな?」

 ドラゴンよりもすごい旅行って何だろう? だめだ、ワクワクしてたまらない。 

 ぼくは聞いた。

「旅行ってどこに行くの? 何をするの?」

 ハルカたちの笑顔が広がる。

 もったいぶった仕草で、ハルカが空を指差した。

「あそこよ」

 指の先には、もう消えかかっている月。

 シンジがニヤリと笑って言った。

「ムーンウォークさ」

 

 

 

 まだ、太陽がのぼらないうちに、シンジの家に着いた。家自体は確かに広い。でも、それほど変わってるってわけじゃなかった。車庫から見える蒼い自動車にタイヤがついていないのは、きっと空飛ぶ靴と同じ原理で動くからだろう。もちろん、それだって十分にすごいんだけど、最初にびっくりしすぎたせいで、たいていのことには驚かなくなったみたいだ。

 ぼくたちは、どうどうと庭を横切り、シンジの部屋の前に立った。

「あれ? この窓鍵がついていない」

 よく見ると、鍵どころか、引っぱれそうな取っ手もついていなかった。ただ、ガラスをはめ込んだだけの窓だ。

「ここから、入れるの?」

 大きさは十分だけど開かないよ、とぼくはシンジに言う。

「大丈夫」

 とハルカが言った。シンジは何かカードのようなものを取り出すと、それをガラスにさしこんだ。どこにもすきまは見えないのに、カードはするっと飲み込まれる。

「もう、入れるわ」

 まず、シンジがまるで何もないかのようにガラスにつっこんでいく。でも、ぶつかるっと思った瞬間、シンジのまわりのガラスがぐにゃりとゆがんだ。ちょうど人の形に穴が開く。

「ほら、ユウも早く!」

 ハルカに背中を押されて、ただのガラスに戻ってしまった窓にふみこむ。さっきとは違う形に穴が開いた。これは――ぼくの形だ。

 続けてハルカも入ってくる。もう、ぼくが何も知らないことにも慣れてしまったみたい

で、あれこれ言ってきたりはしなかった。もしかしたら、本当にテレビも何もない山の中からやってきたと思ってるのかもしれない。

 シンジの部屋は、薄い青色の壁に囲まれていて、机とベッド、そしてあまったスペースには本棚がすきまなく置かれていた。ちょっと変わってるのは、男の子の部屋なのにぬいぐるみが一つあることぐらい。ファンタジーっぽいふんいきを期待してたのに、あんがい普通の部屋だ。ちょっとがっかりした。

「さっき言ってたロボットとかはどこにあるの?」

 押入れなんかもないし、そんなものが入りそうな棚もない。カードを壁に差し込んだら、さっきみたいにニュウッと別の場所が出てくるんだろうか?

「ロボットは別の部屋」

「すごいのよ。ロボット専用の部屋なんだから。えーと、何体あったかなあ? 二〇ぐらいだった?」

「三一」

 シンジが得意そうに答える。本の数も棚からあふれそうなぐらいあるし、シンジってすごい頭がいいのかもしれない。そういえば、ぼくの世界のシンジもいつもテストは一〇〇点に近かった。よくタケルにカンニングさせろって言われて、困った顔をしていた。結局は断りきれなくて見せていたみたいだけど、ときどきは先生にばれてしまうこともあって、タケルと一緒に〇点にされていた。このときだけは、さすがにぼくもちょっとシンジのことがかわいそうになったものだ。 

「見てみたいなあ」

「うーん、ちょっと難しいかも。あの部屋、おばさんたちの寝室の横にあるのよ。今行ったら、起きちゃうだろうし。朝は、ごはん食べたらすぐに出かけなくちゃいけないから、ゆっくりとは見られないと思うわ」

「それより、今日の旅行の確認しときましょうよ。私ドキドキして、今から寝るなんて絶対無理! せっかくガイドブックも買ったんだから、下調べは念入りにしなきゃね。それにユウだったらムーンウォークのこと知らないってことも――って、さすがにそれはないか」

 でしょ? とハルカはぼくの方を向いたけど、どうしていいかわからなかった。前にテレビでやっていた変な踊りとはきっと関係ないだろうって思ったぐらいだ。いくらなんでも、みんなで踊るために旅行するなんておかしすぎる。

 ムーンていうのは、月だ。で、ウォークは歩く。四年生にもなると英語もちょっとぐらいならわかる。

「……月の上で歩く……の、かな?」

 自信なさそうに言ったら、やっぱりはずれてた。ハルカが驚く。

「ここまで知らないとは思わなかったわ。山ごもりでもしてたの?」

 仙人っていうあだなでも付けられそうだ。

「まあ、いいわ。じゃ、説明してあげる」

 突然、ハルカは本棚に向かってピコ起きなさーいと言った。何を言ってるんだ。部屋にはぼくたちしかいないのに。

「お呼びになりましたか、おじょうさま」

 声が聞こえる。シンジのでも、ハルカのものでもない、もっとかん高い声だ。

「まったく、お眠りになっていたのかと思えば、お部屋をぬけだすとは。これは、ご報告しなくてはいけませんね」

「ピコだって、気づかずに寝てたんでしょ。そんなかたいこと言わないでよ。いいじゃない、家出したわけじゃないんだから」

 どこから聞こえてくるんだろう? シンジのロボットは違う部屋にある。それに話しかけている相手は、ハルカだ。

「まあ、二ヶ月ほど前の家出騒ぎは、ひどいものでしたからね」

「そうよ。でも、あれだって本当は家出じゃなくて、星を見に行っただけだったんですからね。それなのにピコが、おじょうさまがいない! って大騒ぎするもんだから。おかげで、今もお小遣い減らされてるのよ。これ以上、減らされたらなくなっちゃう!」

 ハルカの向いている方は、やっぱり本棚だ。あるのはたくさんの本と部屋にふつりあいなぬいぐるみだけ。

 まてよ――ぬいぐるみ? 

 注意して見ると、ぬいぐるみの口がモゴモゴと動いている。 

「何をおっしゃるんですか! もし、変なやからに襲われでもしたら、すり傷どころではすまないんですよ。近ごろぶっそうで、本来ならば、ムーンウォークだって……」

 やっぱりそうだ! ぶつぶつをぐちをこぼしているのは、間違いなくそのぬいぐるみだった。

「ストッープ! ピコのお説教ってば、平気で二時間ぐらい続くんだから。今日は、私だけじゃないのよ。シンジも、それにユウもいる」

 そう言ってから、ぼくの方を振り向く。

「ユウには初めまして、よね。このぶさいくなぬいぐるみみたいなやつはピコって言うの。ルナドラゴンほどじゃないけど、けっこう珍しいエレメンタルっていう生き物なのよ」

「ぶさいく、は余計ですよ」

「さらに言うと、エレメンタルは生き物じゃありません。私たちは、魔力がかたまって意志を持ったもので、どちらかというと、シンジさまが作られているロボットに近いです」「いっそロボットだったら、素直でよかったのにね」

 ハルカが皮肉っぽく言う。けれど、ピコは答える代わりにふわんと浮き上がると、ぼくの近くまでやってきた。

「ユウさま、でしたか。おはつにお目にかかります。わたくし、ハルカおじょうさまの教育係兼子もりのピコと申します」

 ピコは、どう見てもぬいぐるみだった。でも、何のぬいぐるみかと聞かれてもぴったりな答えがみつからない。顔だけならコウモリに似ている。からだはクマが一番近いと思う。翼は付いていないので飛ぶことはできないはずなのに、何故かふよふよと浮いていた。 

 ピコはしげしげとぼくを見つめる。

「……はて、どこかでお会いしたことはありませんでしたかな?」

「それはないわよ。だって、ユウはずっと山ごもりしてたんだから!」

「ほう、山ごもり、と。お若いのに、感心なことです。おじょうさまにも見習ってほしいものですな。だいたい、おじょうさまは……」

 教育係と言うだけあって、どんな話題でもお説教に結びついていく。ただ、問題なのはほとんど迫力がないことだ。喋るたびにピコピコと動く耳はむしろかわいくて、思わず撫でたくなる。

「あー、もうっ! そんなことよりユウにムーンウォークの説明してあげてよ」

「はぁ、わたくしがですか。おじょうさまがしてあげればよろしいでしょうに」

「だって、初めにわたしとシンジに説明してくれたのはピコじゃない。一回行ったことがあるんでしょう? ガイドブックはすみからすみまで読んだけど、やっぱり体験者の方がわかりやすいし、ね。」

 ハルカはそう言っていたけれど、実は自分がもう一回聞きたいんじゃないかって思う。ぼくの横に座って、さあ早く、とせかす姿は、ぼくがおじいちゃんに昔話をせがんだときにそっくりだった。

「シンジは……」 

 いつのまにかベッドから布団に詰めていたクッションが放り出され、代わりにシンジの頭がのぞいていた。静かにいびきをかいている。

 今日は珍しく張りきってたから、とハルカが笑った。

「朝ごはんになったら起こしてあげましょ」

 ピコがコホン、とせきばらいをした。 

「では、説明しましょうか」

「ムーンウォークは、ある一人の王によって……」

 そして、ピコは一人の人間の物語を話し始めたんだ。

 

 

 

 ムーンウォークは、ある一人の王によって始められました。

 そのころ、ちょうど大きな地震や台風が続いて起こり、世界の終わり、とも言われていました。人々の生活は、とても苦しいうえに、明日への希望もない状況です。

 朝起きて、仕事をして、食事をして寝る。毎日がそれの繰り返しで、本を読むものも、音楽を聴くものも、スポーツを楽しむものも、ほとんどおりませんでした。人々は、空を見上げることをせず、そこにある地面だけを見つめて過ごしていました。

 たぶんみんな、空があるなんてことは忘れていたのです。

 王は、悲しみました。王は、たくさんお金をもっていましたが、人間はもっとたくさんいます。とても世界中の人々すべてにわけてあげるなんてことはできません。それに、何よりも、王と同じようにお金をもっている人でさえも、いつもどんよりとした気持ちで暮らしているのです。

 世界には、夢がありませんでした。

 王は考えました。

 どうにかして、人々に夢をプレゼントしよう。

 そう思った日の夜のことです。

 王は、様々なことを考えながら、ふと空を見上げ、そして息をのみました。

 そこには、夜空を埋め尽くすような星と、その中でも大きな輝きを放っている月があったのです。

 自分は今まで、こんなすばらしいものを見逃していたのか。

 王は深く、後悔しました。しかし、同時にこうも思ったのです。

 この月の輝きを、他のみなにも見てもらいたい。できることならば、もっと近くで。

 しかし、たとえ月まで行けるような大きな船を造ったところで、全ての人間が乗ることができるわけでもありません。

 王は、空から目をはなし、地面をじっと見つめました。

 誰もが利用でき、世界中に網の目のようにつながっている「道」がそこにはありました。

 そうだ。これだ。

 王は、自分の財産を全てなげうち、月までの道を作る方法を研究しました。

 王から頼まれた研究員たちには、自分の仕事がいまいち理解できずにいましたが、たくさんのお金を支払われたために、はりきって研究をしました。

 一年間の歳月をかけ、道は完成しました。魔法の道です。

 しかし、せっかく完成したにも関わらず、それを試そうとするものはでてきません。みな、怖かったのです。

 仕方がない。王は言いました。

 わたしが、最初に歩いて月まで行こう。

 王はわずかな家来を引きつれて、十数年歩き続けました。王はもうそれほど若くはなく、旅は楽なものとは言い難かったのですが、王はあきらめませんでした。

 そして、ついに月に到着したのです。

 王が歩いて月まで行った、というニュースは世界中を流れ、子どもたちはいつか自分mも、と胸をふくらませ、大人たちまでもが月を見て目を輝かせました。

 もちろん、人々には家族や仕事があり、全ての人が月まで行けるわけではありません。でも、全ての人に夢を、という王の願いはかなえられたように思われました。世界中が活気にあふれてきたのです。

 人々は、王をたたえ、その偉業をムーンウォークと呼び、いつか自分が月まで歩くことを夢見て、毎日を生き生きと過ごしました。

 

 

 

 ふうっと一息つくと、ピコはぼくの目を見た。

「これがムーンウォーク始まりの伝説ですね」

「伝説?」

「ええ。数十年前のことなので伝説というのは大げさだとも言われるのですが、歴史をゆるがすような大きなできごとだったのですから、わたくしにはこれを伝説と呼んでも差し支えないように思えます」

 なぜかほこらしげに言った。

「でもさ、この伝説ってわたしにはちょっとひとりよがりな感じもするのよね」

「ひとりよがり?」

 聞き捨てならない、とピコがハルカをにらむ。

「だって、結局みんなが行けたわけじゃないんでしょ。行けない月をじっと指をくわえてながめているなんて、ちょっとさびしくないかな」

 それを聞いて、ピコがこの世の終わりのような顔をする。

「そう……ですか。おじょうさまはそう考えられたのですか。……確かに、ムーンウォークは王の夢の結晶と言ってもよいかもしれません。自己満足と言われても仕方がないのでしょう。……ただ――のぞみのほとんどない夢や目標をもつことは、はたしていけないことなのでしょうか?」

「え?」

「い、いえ最後の言葉は忘れてください。わたくしの独り言です。それよりも、もっとムーンウォークについてお話ししましょう」

 そう言うとピコは、月まで歩いたら十数年かかることや、道は正確には地球や月に直接つながってなくて、とても細長い建物のようなものであることを話してくれた。

 授業と違っていくらでも聞いていられた。けれど、こういうときに限って時間はようしゃない。

「そろそろ朝ご飯ではありませんか?」

 時計を見るとすでに七時まであと一〇分にせまっていた。部屋の外から、誰かが起きてきたらしいバタバタと階段を下りてくる音が聞こえる。

「あっまずい! ユウいったん外に出ていて。後で合図するから」

 窓から外に出ると、朝日が寝不足の目に針のようにさしこんできた。

 

 

 

 とりあえず、ハルカたちから合図があるまで、庭の植え木の陰に身を潜めることにした。少しミントの香りのする緑色の葉がチクチクとして痛い。

 それにしても、ツアーにまで付いていっていいのかな、と少し不安になった。ぼくも家族で旅行に行くことはあるけれど、友だちが付いて来たことはないし、ましてや、会ったばかりの子どもが一緒に行くなんて、シンジの家族が許してくれるだろうか? シンジは何かうまい言い訳でも考えているのかな。

 しばらくウジウジと悩んでいたけれど、ぼくが考えたところで結局どうしようもない。今できるのは、シンジたちを信じることだけだ。

 うまくやってくれよ、と窓の奥に向かって祈る。

 今さら、こんな世界で一人放り出されるなんてぞっとしない。

 

 しばらく待っていると、窓をコンコンとたたく音がした。

 突入の合図だ!

 さっき入った家なのに、一人だけで入らなきゃいけないとなると、まるで大きな城みたいに見える。玄関が一キロメートルぐらい先にあるような気がした。

 緊張でガチガチになりながら、一歩一歩近づいた。

 やっとのことで玄関にたどり着く。

 チャイムはどこだろう?

 足元は光るぐらいに磨かれた石で、ドアには木目がついていた。けれど、チャイムは見当たらない。きょろきょろしていると、どこかでカチッとスイッチが切り替わる音がした。

 ブウウン。

 テレビをつけたときのような音。さっきの窓みたいにいきなり開くかもしれないから、少し身構えた。

「どちらさまでしょうか?」

 いつのまにか、ぼくはドアに話しかけられていた。もっと正確に言えば、ドアに浮き出てきた女の人に、だ。

「あ、あの、ぼくはシンジくんの友だちで、今日一緒にムーンウォークに行こうって誘われてて」

 もちろん、これも計画どおり。

「あら? シンジが。ちょっと待っててね、今開けるから」

 すっと普通の木目に戻ると、しばらくしてドアが少しだけ開いた。

「ごめんねー。今ドア故障してるのよ。魔力がちゃんと行き渡らなくて、手で開けなくちゃいけないの。さあさ、このドア重いから手で押さえている間に、入って入って」

 シンジのお母さんらしい女の人が、ドアの間から手まねきした。ぼくは急いで、人間一人がやっと通れるぐらいのすきまから中に入った。

「ふーっ。今日みんなが出かけている間に修理頼まなくちゃね。重いったらありゃしない」 そう言って、笑う。ぼくなんかだと、修理するぐらいなら初めから普通のドアにしときゃいいのにって思うけれど、そうは思わないのがここの世界の人たちなのかもしれない。もしかしたらハルカたちがぼくの世界にやってきても、どうしてこんなむだなことを! て言い出すんだろうか。

「まあまあ、それにしてもよく来てくれたわねー。シンジったらハルカちゃん以外にこんなかわいいお友だちがいることなんて話してくれないんだから! ところで、お名前は?」「ユウです」

 よほど友だちを連れてくることが少ないのか、おばさんは満面の笑顔でぼくを迎えてくれた。やっぱりこういうところは、こっちの世界のシンジも同じだ。

「あらー、いいお名前ねえ。この辺に住んでるの――ってあんまり話しこんだらシンジたちに怒られちゃうわね。今みんなで朝食を食べてるところだから、行きましょ」

 長い廊下を渡って、ダイニングに着くと、そこではハルカとシンジがトーストとベーコンエッグを食べていた。ぼくに気づいて、にやりと笑う。ぼくもうまくいったよ、とウィンクを返した。

「もしよかったら、朝食一緒にいかが?」

 おばさんの提案に、ぼくは飛びついた。昨日の夜のクッキーは、きれいさっぱり、お腹の中には残っていない。湯気をたてているベーコンを見た時から、鳴りそうなお腹をしずめるのが大変だったのだ。

 奥のキッチンでトーストなんかを用意してもらっていると、ハルカが近くに寄ってくる。

「ねえ、上手くいったでしょ?」

「ああ、ばっちりさ」

 正直なところ、ぼくもこんなにうまくいくとは思っていなかった。少しぐらいは疑われるんじゃないかって覚悟していた。

 でも、おばさんの陽気さは、そんな細かいことは吹き飛ばしてしまうらしい。まったく、シンジとは正反対だ。

 そのシンジは、というと箸でベーコンを細かくちぎるのにやっきになっていた。大きいのなら端から食べればいいのに、なぜか一口サイズに切ろうとしている。すでにベーコンとエッグはばらばらになっていて、ベーコンの方は今にも皿からすべりおちそうだ。

「はいはーい、おまたせー」

 大きな皿にトーストとベーコンエッグ、それにミニトマトとレタスのサラダが全部のっている。コップにオレンジジュースをついでもらって、ぼくはさっそくかぶりついた。

「うわあ! おいしい!」

 お腹がすいていたせいもあったけれど、それだけじゃない。ぼくが思わず叫んでしまったのは、どの料理もみんなぼくの世界のとは少し違っていて、とても新鮮な味だったからだ。特にミニトマトなんかはドレッシングもかかっていないのにピリッと辛くて、食感もスナック菓子みたいにサクサクしている。とても食べやすかった。

「えんりょなく食べてね」

 そういわれる前から、ぼくはバクバクと皿の上のものをたいらげていた。自分でも驚くぐらいだ。やっと一息ついたときには、ミニトマトを五個とジュースを二杯おかわりしていた。

「はー満足」

「どう? おいしかったでしょ」

「うん、最高だった。今まで食べた料理の中で一番おいしかったよ」

 ハルカにそう答えると、ただの朝食なんだから、とおばさんは照れくさそうにしていた。

 残ったジュースを飲みほして横を見ると、シンジも箸をおいて食べ終わったみたいだった。

「シンジ、ミニトマト残ってるよ。好き嫌いしちゃ駄目でしょ」

 まるでお母さんみたいなことをハルカが言う。それがおかしくて、ぼくの顔はにやけてしまう。おばさんも笑いをこらえているようだった。

「それ食べないと、ムーンウォーク行けないんだからね」

 むちゃな理屈だけど、シンジは何かを決意したように残った三個のミニトマトを口に放り込んで、一気にかみくだいた。おでこにしわがよって、どこかのおじいちゃんみたいに見えた。こんなにおいしくても好き嫌いっていうのはあるんだ。

「これでいいだろ」

 苦い顔のシンジを三人で笑っていると、二階からドタドタと足音が聞こえてきた。

「おおっ! もう八時近いじゃないか! 何で起こしてくれなかったんだ!」

 現れたのは、だいぶ髪の薄くなった男の人。慌てて来たのか、まだパジャマを着ている。

「大丈夫ですよ。九時までに出発すればいいんですから。それよりも、お客さんの前でその格好は、ねえ」

 そう言われてやっとぼくたちに気づいたのか、ずりおちかけていたメガネを直して、パジャマをぐいっと引っ張る。ただ、元々がパジャマだから、あまり格好はつかない。

「おー、ようこそ我が家へ。ええと……」

「わたしはハルカ。こっちはユウです」

「ほうほう、そうか。いやー悪いね、人の名前を覚えるのは苦手なもんだから。……しかし、行くのはハルカちゃんだけじゃなかったかな?」

「ええ、そうだったんですけど、飛び入り参加っていうことでダメですか?」

 おじさんは、少し難しそうな顔をした。

「でも、一応ご両親の了承をとってからじゃないとねえ」

 ここぞとばかりに、ぼくはハルカたちにしたような作り話を、なるべく自分がみじめに見えるように話した。おじさんはもちろん、まだ話していなかったおばさんも驚いた顔をしている。

「それは、許せんなあ。小学生の子どもを放っておくとは、いったい何を考えとるんだ!」「でも、今多いらしいわねえ」

 なにやらしんこくに話す二人を見て、ぼくの胸はちくりと痛む。

 おじさん、おばさん、それにお父さん、お母さん、ごめんなさい!

 しょうがないとは言え、こんなうそをつかなくてはならないのは心が痛んだ。

 おじさんが、ぽんと手をたたく。

「わかった。そういうことなら、おじさんが保護者代理ってことにしておこう。まあ、子ども相手に追い返すなんて酷なことはしないだろう」

 そう言うと、トーストをくわえて外に出て行った。

 パジャマのままで、だ!

 続いて、ブォムという何かが動く音が聞こえる。

「まだ早いでしょうけど、お父さん張りきっているみたいだから、行ってあげてね。本当にあの人は子どもみたいなんだから。今回だって、送り迎えするだけだっていうのにねえ」

「あれ? おじさんやおばさんは一緒に行かないんですか?」

 てっきり、シンジの家族と一緒に行くものだと思ってた。

 ハルカが胸を張って答える。

「ええ、そうよ。ガイドも付いてくるし、こっちには経験者だって……ってあれ? ピコは?」

 そう言えば、朝食の時からずっといない。ハルカがしまった、という顔をする。

「あっ! さっき着替えてた時に、服持っててもらったままだ」

 恐る恐るシンジの部屋に戻ると、頭の上にシャツをのっけてムスッとしているピコがぼくたちを出迎えてくれた。

 

 

 

 おじさんが用意してくれた車に乗って、シップの発着場所までの一時間、ぼくは色々とおしゃべりをするつもりだった。ムーンウォークについての説明はしてもらったけれど、まだまだこの世界について知らないことが多すぎる。自分でも不思議だけど、ぼくは、もうそれほどあせってはいなかった。もちろん、元の世界に帰れる保障なんてどこにもない。かといって、帰ることをあきらめたわけでもない。でも、なんだかハルカたちと一緒にいると、とても安心できたんだ。何とかなる、そう思えた。

 その安心感のせいかもしれない。気がつくと、おじさんに揺り起こされているぼくがいた。

「はは、みんな昨日ちゃんと寝てなかったのかな?」

 ぼくだけじゃなくて、ハルカもシンジも窓やクッションに寄りかかって眠っていた。

「それは、昨日の夜……」

 と言いかけて、あわてて自分の口をふさいだ。

「昨日の夜?」

「えっと、昨日の夜みんなでゲームしていて、興奮して眠れなかったんです。たぶん、みんなも同じだと思います」

「ふうん。今日は、けっこう歩くことになるけど大丈夫かい?」

「はい、もちろん!」

 一時間寝ただけじゃ身体もギシギシ悲鳴を上げているし、目もしょぼつくけれど、こんなことでせっかくのチャンスをふいにはしたくない。ハルカたちはまだいい。来ようと思えば、いつだって来れる。でも、ぼくは今回一回きりだ。月に行くなんて、ましてや月まで歩くなんて、もう絶対に体験できないだろう。

 おじさんがハルカたちを起こしている。ぼくは一足先に、外に出た。

 月に行くシップ――つまりは、宇宙船の発着場だから、とても大きなものを想像していたのに、実際にぼくの前にたっているのはコンビニかな、思えるぐらいの銀色の建物だった。ドラゴンを飼っている小屋をみたせいでよけいに小さく見える。とてもじゃないけど、ここから宇宙船が飛んでいくなんて信じられなかった。

「わあ! もう着いたのね」

 ハルカが目をこすりながらそばにやってきた。シンジはまだ寝たりないのか少しふらついていたけれど、建物を見たとたんに水をかけられたみたいにしゃっきりとする。

「早く行こうよ」

「そうね。まだ早いけど中で待たせてもらったらいいしね」

 二人の様子を見ていると、ここから出発するのは当然のことみたいだ。建物のてっぺんが少しとがっているから、そこからロケットみたいに打ち上げたりするんだろうか。三人が細長いロケットにぎゅうぎゅうに押し込まれて発射される姿を想像して、少し気分が悪くなった。

「ユウ様の心配されているようなことはありませんから、ご安心を」

 突然かけられた声にぎょっとして振り向くと、ピコがおじさんにつままれて車から出てきたところだった。今までどこにいたんだろう。ぼくたちと一緒に車に乗ったのは間違いないんだろうけれど、いつ、どのタイミングで乗ったのか全然思い出せない。まるで空気にとけたみたいに、ぼくはピコの存在をすっかり忘れていた。

「なんで、ぼくが心配しているってわかるの?」

「それよりも、まず私を持っていてくださいませんか。シンジ様の父上はこの旅行には参加されませんし」

「さっきみたいに浮いてればいいじゃない」

「あれはあれで、疲れるものなのですよ。浮いているだけで、体力を消耗しますから。今日一日中浮いていたら、わたくしはきっと疲れて死んでしまうでしょう」

 ぼくがもたついていると、ピコはさっとぼくの肩に飛びのってきた。

「ここでもいいでしょう。みなさまが歩かれているのに、一人だけ抱きかかえられているのも申し訳ないですから」

「ハルカに頼めばいいのに」

「おじょうさまにですか。うむむ……いつ振り落とされるかわからないので、それはちょっと」

 まあ、ピコがのっかったところでたいした重さじゃないので、歩くのにはとくに問題なさそうだ。疲れたら、シンジにでも交代してもらえばいい。

「わかったよ。で、さっきの続き。どうしてぼくが心配してるってわかったの?」

「簡単なことです。ユウ様は、失礼ですがこういった都会の設備になれて折られない様子。ムーンウォークもご存じなかったぐらいですから、きっとここからどうやって宇宙に行くのだろう、と気をもんでいるのではないですか」

 その通りだ。

「ムーンウォークが最初に行われた頃には、よくユウ様のようなご心配をなされる方が多かったものです。特に、シップに関しては、船と誤解する方もいて、どうやったらこんな小さいところから、しかも海もないのに出発できるんだ、とよく質問されました」

 たんたんとしゃべるピコとは逆に、ぼくの心臓はバクバク波打っていた。あまりにも、ぼくの知りたいことそのもので、まるで心を読まれたみたいだ。

「シップ、というのは船ではありません。宇宙までの移動手段に、そう名づけられただけです」

「じゃあ、どうやって行くのさ」

「瞬間移動よ」

 いつのまにかハルカが横に来ていて、ピコの代わりに答えた。

「正確に言えば、ちょっとは時間がかかっているんだけどね。わたしもこれは、ガイドブック読んだだけだからくわしく知らないんだけど、カプセルみたいのに入ったら一瞬で宇宙まで運んでくれるんだって」

 瞬間移動! それが本当だったら、学校まで歩かなくってもいいし、混んだ電車なんかに乗る必要もない。散歩の途中で世界中の料理を食べたり……でも、

「今日も車じゃなくて、それで来たらすぐに着いたのに」

「私たちが買えるようなものじゃないわ」

「それにね、ムーンウォーク以外では使われてないのよ。すごい便利だと思うんだけど……不思議よね」

 そうなの? と聞くと、ピコはなぜか少しさびしそうに笑った。

「……ええ、そうです。ムーンウォークの技術は秘密。誰にも知られてはならない秘密なのですよ」  

 

 

 

 建物の中は、予想以上に広かった。そう感じるのは、ものがほとんどないせいかもしれない。まるで、引っ越ししたあとみたいにすみずみまで掃除されていて、あるのは銀色のカウンター。それと、人が一人入れるぐらいのカプセルが一つだけ壁にへばりつくように置いてある。カプセルは上の方に太いアンテナみたいなものがついていて、天井をつきやぶって伸びていた。さっき外から見た発射台のようなでっぱりは、きっとこのアンテナだ。

 一番最後に入ってきたおじさんに、カウンターに座った女の人が声をかける。

「ご予約なさっていたサカイさまですね」

「はい。すみません、少し早く着いてしまったみたいで」

「かまいませんよ。……あら? ご予約ではお子様お二人とエレメンタル一匹ということでしたが」

「ああ、そのことなんですが……」

 おじさんが少し困った様子を見せる。ぼくのことをどう説明しようかと考えているみたいだ。

「……実は、今日になって親戚の子どもが遊びに来まして。ムーンウォークの話をしたらどうしてもついていきたい、と。予約はしていないんですが、一緒に行かせてやれませんか?」

 この世界に来てから、ぼくの身分は次々に変わる。最初は変な人、次に親に放っておかれているかわいそうな子ども、そして今は、シンジの親戚だ。必要なうそなんだ、と自分に言い聞かせているんだけれど、いつか何かの拍子で全てしゃべっちゃうんじゃないかと思うと少し怖い。ハルカたちは、うそをついてたぼくをゆるしてくれるだろうか?

「ええ……と、お子様がもうお一人参加ですね。しばらくお待ち下さい」

 ここで、つき帰されたらどうしよう。今ハルカたちとはなればなれになったりしたら! 女の人がカウンターから出てきたキーボードに何か打ち込んで調べてくれている間、ぼくは気が気じゃなかった。ハルカとシンジの方を見ると、心配そうな目で見返してくる。

「……はい。お一人様参加、大丈夫です」

「やったあ!」

 ぼくとハルカ、そしてシンジまでがとびあがって叫んだ。

「では、エレメンタルは無料となりますので、お子様三人でお会計の方は……」

 しまった! うかれていてすっかり忘れていたけど、旅行っていうからにはお金がかかるんだ。ぼくは、思わずおじさんを見る。

「うん? ああ、大丈夫。子どもはお金の心配なんかするもんじゃないよ」

「そう! シンジのパパってば社長なんだから、このぐらいなんともないわ」

 そう言ったハルカが、ピコにたしなめられる。おじさんも苦笑い。

 でも、本当によかった。自分でお金を出しなさいとはさすがに言わないだろうけど、貸してあげるよ、なんて言われてもまったく返すあてなんてない。

「……はい、確かにお預かりしました。では、さっそく順番にシップに乗っていただきます」

「ガイドさんはいないんですか?」

「ガイドは現地で待機しています」

「いい人だったらいいなあ」

 ぼくがボソリともらした一言に、女の人が笑う。

「ええ、いい人ですよ……ちょっと変わってはいますが、とても面白い人です。きっとみなさんもきっと気に入るわ」

 変わっているっていうのがひっかかったけれど、よくよく考えれば、ここに来てから変わったことばかりだ。

 ぼくたちは、カプセルの前までつれられていった。近くに来てわかったんだけど、このカプセルにはもようがついていた。いや、もようというよりは文字の集まりと言った方がただしいかもしれない。耳なしほういちみたいに、からだ中お経だらけって感じだ。

 女の人がふたを開けてくれる。

「もう、ご存知かもしれませんが、このカプセルで魔力を瞬間的に増幅し、みなさんを遠く離れた場所までお送りします。少し怖いかもしれませんが、危険はありませんので、どうかご安心下さい。数十秒せまいのをがまんしていただければ、すぐ到着します」

「さあ、どなたからお乗りになりますか?」

 ぼくらを見回す。

 けれど、やっぱりはじめての体験だ。いくら一瞬で送ります、と言われても、からだがバラバラになるんじゃないか、違うところに送られたら――なんて恐ろしいことばっかり考えてしまう。

「ねぇ、ユウが先行ってよ」

「い、いや、こういうのは経験者が先に行ったほうが……ね、ピコ」

「わたくし一人でですか? わたくしは一応おまけなので、どなたかと一緒にお送りしていただかなくては。転送代も馬鹿になりませんからね」

 ふたの開いたカプセルの前で押し付けあっていると、いきなり誰かがカプセルの中に飛び込んだ。

 シンジだ。

「さあ、早くやっちゃってよ」

 口調も軽い。まるでこれからメリーゴーランドにでも乗るような気軽さだ。ガコンという音とともにふたが閉まる。

「はい。では、いきますねー。めまいがするかもしれませんので、念のため目は閉じていてください」

 シンジがぎゅっと目をつぶる。

「では、三、二、一……はい!」

 バシュッと目の前が白く光った。

「おおっ、もういない。すごいもんだ」

 しばらくして、おじさんの声が聞こえたので目を開けると、カプセルの中からシンジの姿はあとかたもなく消えていた。

「昔一人で行ったことはあるんだが、周りから見るとこんなふうに見えてたんだなあ。手品でも見ているみたいだよ」

「本当に着いたのかな? わたしたちが目をつぶってる間に、カプセルの後ろの方に隠れてたりして」

 ハルカがそういうのも無理はないと思う。ぼくだって、まだ信じられない。

「ちょっと待ってくださいね」

 そう言って、女の人は電話らしいものをとりだして、ボタンを押した。

「……あ、はい。着きましたか。ええ。その子に代わっていただけませんか?」

「はい、どうぞ」

 さしだされた電話をハルカが受け取る。

「えー! 本当! どんな感じ? 説明できない? 来ればわかるって? わかった。ユウにも代わるね」

「やあ、ユウ」

 間違いない。シンジの声だ。

「調子はどう?」

「そんなこと聞いてる暇があったら、早く乗りなよ。それとも、まだ怖いの」

 いつのまにか、また意地悪な口調になっている。

「そんなことあるもんか!」

 電話を返して、ぼくはカプセルに入った。肩に乗っているピコも一緒だ。もう、怖くはなかった。

「じゃあ、先に行くね」

「うん。わたしもすぐに行くから、ちゃんと待っててね。おいてったりしたら、怒るからね」

「大丈夫。そんなことしないよ」 

 女の人の、では行きまーす、という声を耳に、ぼくは目をつぶった。ピコを抱きしめる。

 ギュウウウウウン。

 魔力が集まってるんだろう。目を閉じていても、まぶたを通して白い光が見えた。

 三、二……。

 自分でも心の中で数える。

 ……一、〇!

 バシュー!

 その瞬間、さっきの注意を無視して、ぼくは目を開けた。

 ちょっとぐらいめまいがしたってかまわない。宇宙に行くっていうのがどういうことなのか、一目でいいからみておきたかった。

 

 道――どこまでも続く道が見えた。

 

 たぶん、とんでもない速さで移動しているはずなのに、その道だけはなぜかはっきりみえた。真っ黒に塗った画用紙の中で、けずりとったみたいに長く、白く。

「……なつかしい」

 腕の中で、ピコがつぶやいた。

 やがて道は消え、ぼくのからだは何かやわらかいものの上に着地した。

 ふたが開く音がする。

 ざわめきの中でシンジの声が聞こえた。

「遅いじゃないか!」

 目を開けると、ニヤリと笑うシンジ――と、その向こうに、

「月だ!」

 大きくて、白い。近づきすぎているせいか、窓から見えるのは、ほんの一部分だった。地球で見るのとは、全然違う。

 本当に、来たんだ。

 からだの奥からジワジワと喜びがわいてくる。

 ああ、あんなに近くにある。月まで、本当に歩いていけるんだ!  

 

 

 

 ぼくたちが送られてきた場所は、さっきの建物よりずっと大きかった。すぐ横エレベーターは一〇階まであるし、カプセルもゆうに二〇個近く置かれている。窓から宇宙が見えること以外は、普通のホテルとあまり変わらないような気がした。

 バシュン。

 聞きなれた音がして、カプセルの中にハルカが現れる。

「おー、月だ!」

 ぼくと同じことを言っている。シンジも似たようなことを言ったんだろう。最初から見てたら、きっとおかしかったに違いない。

 でも、それだけ、窓の外に見える月は力強くて、他の風景から飛びぬけて見えたんだ。

「それにしても、ガイドさんはどこだろう?」

 ぼくはあたりを見回す。

「ああ、ちょっとトイレに行ってくるってさ」

 シンジが答える。おどおどをしたシンジばかりを見ていたぼくには、この性格のまったく変わったシンジにいまいちなじめなかった。前のウジウジしたのよりましな気もしたけれど、頭にいくじのないシンジの姿がしみついてしまっている。

「で、どんなふうに変わった人だったの?」

 ハルカが興味しんしんといった様子でたずねた。

「いや……別に変わってはいなかったと思うけどなあ。明るくて楽しそうな人だったよ」

「ふうん。あの受付のお姉さんが言ってた人とは違うのかなあ。わたし、ちょっと楽しみにしてたのに」

「いいんじゃないかな。きちんとしたガイドの人の方が、説明もうまいよ、きっと」

 それに、これ以上変わったことが増えたら、頭がパンクしちゃう、と心の中でつけ加えた。ハルカもうなづく。

「そうかもね」 

 その時、いきなりぼくの頭にぽんと手が置かれた。

「よくわかってるじゃないか。その通り、俺の説明はわかりやすいぜ!」

 上を見上げると、毛むくじゃらの手とひげにおおわれた顔が見えた。

 まるで、南の島にでも来たかのようなはでなシャツに、サングラス。見上げるような大男だ。後ろに見える月とはチグハグな感じだったけど、この男の人がぼくたちのガイドに間違いなかった。

 男の人はおおげさなしぐさで、礼をすると、

「お初にお目にかかります。わたくし、今回みなさまがたのご旅行のガイドをさせていただく、オオガミコウと申します。ご旅行中、何かご心配な点がございましたら、何なりとおたずねくださいませ――っと」

 ポリポリと頭をかいた。

「まあ、これ一応言うきまりになってるんだ。俺のことは気軽にコウとかウルフって呼んでくれ。年上だからって気をつかうなよ。そのかわり、俺もお前たちのことは客とは思わん」

 客と思わないってのはちょっとひどいんじゃないかなって、ぼくが文句を言おうとしたら、コウはにやりと笑って付け加えた。

「最高の友人としてあつかうからな」

 ぼくたちは、すぐにうちとけた。コウの言葉じゃないけど、まるで何年も一緒に過ごしてきた友だちみたいに、冗談を言い合ったりできるようになった。年はひげのせいでよくわからないけど、たぶん三〇歳よりは上だと思う。ぼくたちの三倍は生きているはずなのに、まるで同級生と話しているみたいだった。それが、ただ子どもっぽいだけなのかどうかはよくわからないけど、このぐらいの「変」だったら、逆にうれしい。

「でも、なんでウルフって呼ぶの? 今どきウルフっていうあだ名はダサいんじゃない?」

 ハルカがストレートに聞いた。

「俺の名字をもう一回言ってみろよ」

「おおがみ……まさか、だからオオカミってことなの! なんかもっとカッコいい理由を想像していたのにがっかりだわ」

 ぼくもがっかりした。それじゃあ、ただのだじゃれじゃないか!

 でも、ぼくたちがそう言うことはコウも予想していたみたいで、まあ最後まで聞けよ、とおしとどめる。

「それは理由の一つだ。もう一つの理由――これは本当は秘密なんだがな」

 秘密にしては声が大きい。でも、周りにいる人たちは、特に気にしている様子もなかった。コウは、話そうかどうしようか迷っているそぶりを見せた。

「もったいぶらずに、早く聞かせて!」

「そうよ。ここまで言って、全部話さないなんて男らしくないわよ」

「ようし、じゃあ俺が何を言っても驚くなよ」

 シンジがブルっと震える。でも、やめて、とは言わなかった。

「よし、じゃあ俺がなぜウルフって呼ばれるのか教えよう」

 コウがにたあと歯を見せて笑う。黄色くてあんまりきれいな歯ではないけれど、妙にとがっていた。

「――それは、俺がオオカミ男だからさ!」

 

 

 

 月とオオカミ男。確かに、きってもきれない関係だと思う。昔おじいちゃんに話してもらった物語には、よく出てきた。満月を見ると、からだ中に毛がはえ、歯はするどくなって、人間をおそうようになるのだ。ぼくも幼稚園のころは、お父さんは実はオオカミ男じゃないかとか、銀でできた武器を買わなくちゃ、なんていうことをよく考えていた気がする。

 でも、ぼくたちはもう小学生だ。オオカミ男なんて……馬鹿らしい!

 恐ろしい顔をしてみせるコウの周りで、ぼくたちはお腹を抱えて笑っていた。

「いつも同じこと言ってるんでしょ? 秘密って言うわりに他の人が気にしてないから変だと思ったんだよなー」

「わたしも。でも、オオカミ男って……確かに月にはぴったりだけど」

 ハルカが笑いをこらえて言う。

「今でも毛むくじゃらだから、オオカミ男に見えないこともないけどね」

 コウは、なんてこった、と大げさにかたをすくめる。

「今どきの小学生は、ここまでひねくれちまったのか? 俺が昔、ドラキュラやオオカミ男なんかの映画見たときは、夜眠れなくて困ったものなんだがなあ」

「嘘でしょ、それ。だって、オオカミ男がオオカミ男を怖がるなんて、どう考えたっておかしいもの」

「本当さあ。俺が初めて自分がオオカミ男なんだって気づいたのは、六歳ぐらいの時だからな。その時は驚いたなあ。今まで、モンスターなんてばかばかしいって思ってたのに、まさか、自分がそうだったなんてな。考えもしなかった」

「どうしてわかったの?」

 質問したのはぼく。

「一度だけ変身した気もするな」

「気もするって……。それじゃオオカミ男って言えないんじゃない。やっぱりオオカミ男って言うからには、満月見たらいつも変身しなきゃ」

 そう言うと、コウが困った顔をする。

「そうなんだよなあ。まあ、だから、この場所で仕事をしているわけなんだけどな。もう一〇年になるかな。月の近くの方が変身するには好都合だろ?」

「月には行かなかったの?」

「ああ。そりゃあ、行ってきちんと変身できたらそれでいいさ。でも……もし変身できなかったら? 俺がずーっと信じてきたことは、全部うそだってことになっちまうわけだろ? さすがに、それはどうにも……恐ろしくてなあ。だからな、今回もガイドはするけど、俺は月には降りん。そこでまた、別のガイドに受け渡しってことになるな」

 ツアーのサービスでいつも同じ話をしているんだろうけど、なんだかコウは本当に悲しんでいるように見えた。自分がオオカミ男じゃなくて悲しいってのも、変な話だとは思うけど。

「そんなことより、早く行こうよ」

 突然、シンジが怒ったような声で言った。そう言えば、一緒に話を聞いてはいたけど、さっきから一言もしゃべってない。

 ぼくは、ハルカに小声で聞いた。

「どうしたの、シンジ? 何か怒ってるみたいだけど」

「……うん、そうだね。……今はそっとしといてあげてくれない? ごめんね。後でちゃんと説明するから」

 シンジの様子にコウも少し驚いたみたいだけど、そこはさすがにベテランのガイドだ。ぱっと話をきりかえた。

「よし! わかった。じゃあ、ちょっと準備しておいた道具をとってくるから、そこのロビーに、ほら、椅子があるだろう? そこで待っててくれ。ここにいたら、他のお客さんの邪魔になるかもしれないからな」

 そう言って、奥の方へ駆けていった。

「道具?」

 ハルカが不思議な顔をする。

「それは、きっと専用の寝袋などですね」

 突然声がしたかと思うと、またしてもピコだった。

「今までいったいどこ行ってたの?」

 それは、ぼくも聞きたい。何しろカプセルの中ではぼくと一緒だったはずなのだ。でも、またいつのまにかピコのことは頭の中からすっかり消えていた。

「いえ、一緒にいましたよ。おじょうさまたちが気がつかなかっただけでは?」

 そう言われると、ハルカも言い返せないみたいだった。ぼくと同じように、ピコのことを忘れていたのかもしれない。シンジは、別にどちらでもいい、と言いたげな感じにあたりをぶらぶらしている。

 何となくもやもやとした気持ちのまま、言われたとおりに椅子に座って待っていると、しばらくしてコウが戻ってきた。手に袋のようなものを四つかかえている。

「あれ、こいつは……エレメンタル、か?」

「うん。わたしの家にいるエレメンタルのピコって言うの。そうだ! コウさん、さっきコイツいなかったよね?」

「え? ……ううんいたような気もするし、いなかったような気もするなあ」

「えー! 頼りないなあ」

「でも、お前たちは気づいてなかったのか?」

「うん……それが」

 ねえ、とハルカがぼくとシンジを振り返る。

「まあ、いいさ。別にいなくなったってわけじゃないんだろ。それなら一大事だが、いて困るってことはない。それより、ほら!」

 コウが持っていたリュックを投げてきた。色は黄色で旅行会社のロゴがついた、ナップサックぐらいのリュックだ。

「大きいものだから大丈夫だと思うが、なくしたりするなよ。こう見えて、けっこう高いんだからな」

「何が入ってるの?」

 シンジはそう言いながら、もうリュックのなかに手をつっこんでいる。遠足に行く前の準備っていう感じで、怒っている様子もない。まったく、なんでこうコロコロと気分が変わるんだろう。あとでハルカが教えてくれるって言っていたけど、なるべく早く聞いておいたほうがよさそうだ。理由もわからず怒られたりしたらたまらない。

「メインは寝袋だな。それに、携帯用の食料、簡易宇宙服。それと、これは俺が代表で持っていくんだが――簡易トイレ」

 うえ、とハルカが顔をしかめた。

「そんな顔するなよ。これがないとムーンウォークしている最中にあわてて近くのステーションに戻ってこなきゃならなくなる。まあ、この付近から出発する観光客は多いから五キロおきにステーションがあるけどな。それでも、お腹を押さえながらマラソンなんてしたくないだろ?」

 でもねえ、とハルカとぼくは顔を見合わせる。

「ああ、そういうことか。大丈夫。小さくても、テントみたいに広がって個室トイレになるから。しかも、おしっこをろ過して飲み水にかえる機能つき!」

 それを聞いて、ぼくたちの顔がゆがんだ。

「まあまあ心配するなって。今日はリュックにきちんと飲み物もいれてあるから。でもな、実際に地球から歩いてくるムーンウォーカーたちにとっては、これがなくてはならないものだってことは覚えておいてほしい。食料は乾燥させてかなりの日数分を持ち運ぶこともできるが、水はそうもいかない。一週間分の飲み水を入れただけで、リュックはパンパンさ。このトイレと、空気中の水分を集める装置――これは、ミネラルって名前なんだが、その二つが命づなだ。最近は、移動マーケットみたいのもあるみたいだが、何しろ距離が距離だ。一ヶ月で一回会えたら幸運ってとこだな」

「もしかして、死んじゃった人とかもいるの?」

 ぼくは聞いた。さっきのオオカミ男の話に比べてあまりにリアルで、怖かった。

「いや、本当に不思議なことなんだが、それはない。ムーンウォークが始まって何十年もたったのに、死人どころか大怪我をしたやつもいないんだ。今は、ムーンウォーカーはみな緊急信号を発信できるタグをつけているから、それもわかるんだが、昔もいないってのは奇妙だよな」

「誰かが助けていたのかな?」

「そんなお人よしの人間がいると思うか? 第一、見回るとなるとムーンウォーカーとは比べ物にならない人数が必要だ。ただ――」

 コウはそこでいったん口を閉じた。

「ただ、噂に聞いたことがあるんだが、昔歩いている途中に心臓発作で倒れた人がいたそうなんだ。もちろん、薬なんか持っていない。その人はこのまま死ぬ、と覚悟したらしい。

でも、いつまでたっても意識がある。これは、どうしたことだ。もしかしてもう死んだのか、ここは天国か? その人は、思い切って目を開けた」

「最初は、やっぱり天国だって思ったみたいだな。何か妖精みたいなのが周りを飛んでいたらしい。天使じゃなくて、妖精だ。でも、よく見てみると、周りは自分が倒れた時のままなんだな。しかも、妖精は彼に話しかけた。『心配しないで下さい。貴方は無事に帰れますよ』ってな」

 オオカミ男の次は妖精。もう何でもありだ。

「うーん、まあ本当のところは、偶然、通りがかった誰かに助けられたんだろうな。で、その倒れた場所がたまたま一〇〇キロごとにおかれた連絡所に近かった。妖精は……ま、幻覚でも見たんだろう」

 そこまで話すと、コウは時計を見て、おっそろそろ行かないとやばいな、とつぶやいた。

「リュックに入っているものの使い方はそのつど教えるから、とりあえず歩き始めようか。今日はお前たち軟弱な小学生にはきっときついぞー。ここが、いくら月から近いからって言っても、ゆうに二〇キロはあるからな。しっかりついてこいよ」

 まわりのいくつかのグループも、さっきから一〇分ごとぐらいに出発しているみたいだった。

「なんでちょっとずつ行くんだろ? みんなでいっせいに行けばいいのに」

 ハルカが不思議そうに言うと、コウがわかってないなあ、と首をふる。

「それじゃあ、ふんいきがだいなしだろ。ムーンウォーカーってのは元々、こどくなもんなんだ。本当はグループなんか作らずに一人ずつ歩いていきゃいいんだが、それじゃ商売にならんからな」

「よし、では出発! リュックは持ったな。心配だったら、一応トイレも行っとけよ」

 コウがぼくたちに念をおす。

「何かあったら、ここか、途中にあるステーションによる。ステーションの上の階には病院からなんでもそろってるからな。でも、何も問題なかったら、月までつっぱしるぞ。ステーションで休息しようなんてのは邪道だ」

 ぼくは胸を張って言う。

「ドンと来い!」

 そして、ぼくたちは、月に向かっての第一歩をふみ出した!

 

  地面は予想以上に固かった。宇宙なので、てっきりふわりとした感触が伝わってくると思っていたのに、ぼくの足の下にあるのは、大地と言ってもいいほど、しっかりとしたものだった。思い出してみると、出てきたばかりのステーションの中でもからだが浮いて困るなんてことはなかったし、もしかしたら、重力がどこかで作られているのかもしれない。前にテレビで見た宇宙ステーションは、回転して重力を発生させて、しかも天井や地面がごちゃごちゃになっていた。元の世界で同じものを作ることができたら、きっとすごい役に立つんだろうな。持って帰れるかどうかもわからない。そもそも、帰れるかさえ定かではないけれど。

「さあ、こっちの方向に進むからな。反対側に行ってもいいが、地球に着く頃にゃ、俺ぐらいの年になっているかもしれんから、覚悟しとけよ」

 コウはそう言ってガハハと笑うと、先頭に立って歩き始めた。

 歩きながら、あたりを見ると、改めてこの「道」のすごさがわかった。

 「道」はチューブのように長く続いていて、先の方は水平線みたいに見えなくなっている。幅は車が二台通れるぐらいで、思ったよりは広くない。それでも、ところどころに窓があって、そこから宇宙が眺められるから、狭いことはそんなに気にならなかった。

 ハルカが軽くスキップをふむ。

「別に、からだが軽くなるわけじゃないのね。どうせなら、無重力でふわふわ進んでいけるようにすればよかったのに。ついでに窓なんかなくして、全部透明にしちゃえばまるで泳いでいるみたいで楽しいと思わない? ムーンウォーカーが何年も旅を続けるんだったら、その方がらくだと思うんだけどなあ。ねえ、シンジ?」

 シンジが馬鹿にしたようにハルカを見た。

「それじゃ、歩く意味がないじゃないか。ムーンウォークなんだから、歩かなきゃ意味ないだろ。そんなこともわからないの?」

 それを聞いて、コウがにんまりする。

「おお、わかってるねえ。そうだよ、月まで歩くっていうのに、男のロマンがあるんじゃないか」

「ロマンねえ」

 ハルカが、まるで理解できない、と首をふる。

「それにな、ハルカ。本当に、道が全部透明になったときのことを想像してみろよ。まわりには、吸い込まれそうな宇宙がずーっとどこまでもはてしなく広がってるんだ。ちょっとぐらいならいいかもしれんが、何日もいたら気が変になっちまう」

 コウはぶるっとからだをふるわせる。

「人間はやっぱり、目に見える道を一歩一歩ふみしめて進んでいかないとな。まあ、それだけでもかなりの体力が精神力が必要になるが」

 道がわかれていないだけあって、せっかく一〇分おきに出発したのに、先のグループがいくつも見えていた。

「あんまり、速く歩き過ぎるなよ。前の人たちに追いついちまう」

「どうして? これだけ見えてるんなら、たいした変わりはないんじゃない?」

 ぼくは言った。追いついてしまったのなら、一緒に歩くっていうのもありだ。

[同じ観光客ならいいんだがな。ときどき、ムーンウォーカーたちとはちあわせちまう時があるんだよ。地球からはるばる何十年もかけてやってきたやつらは、遊び半分で来た観光客たちを快く思わないことが多いんだ」

「そんなの勝手だわ」

「ああ、勝手さ。でも、あいつらが人生のかなりの部分をかけて、ここまでやってきたのも確かなんだ。それを、たった一日しか歩かない俺らがぶち壊しちまうのも、何だか気の引ける話だろ」

「それはそうだけど」

 ハルカはまだ納得していないようだったが、ぼくにはムーンウォーカーたちの気持ちが少しわかった。

「もしかしたら、本当は観光なんかしちゃいけないのかな」

 思わず、つぶやきがもれてしまう。

「いや、そこが難しいところなんだ。ムーンウォーカーたちの中には地球をたつ前に必要なお金を全部用意するやつもいるんだが、その反対に全くお金をもたずに出発するやつもいる。そいつらは、当然のごとく、そのままじゃ旅を続けられないわけだ。手持ちの金がつきたら、そうそうにタグで帰還の申請をしなくちゃならん」

「ぼくがもしムーンウォークするって言ったら、パパたちが全部出してくれるだろうけどね」

 シンジが得意そうに言った。嫌味なやつだ。うじうじしているシンジは嫌いだけど、こんなふうにしゃべるのも聞いていて気持ちのいいものじゃない。

「ほう、そうなのか。みなが金持ちだったら苦労はないんだが、まあ、そうじゃないやつもいるんだ。いや、むしろその方が多いかな。そいつらが何でかせぐかというと――これだよ」

 コウはぽんぽんと自分の持っているリュックを叩いた。

「モニターだ。観光用の、あるいは金持ち連中が使う機器類を試しに使って、不具合がないかどうか確かめるんだ。研究を重ねられて作られたものだから、モニター製品といったもめったに壊れないし、事故なんかもない。それでも、完成されたものに比べたら、色々と不便なところがあるから、試験するわけだ。金がないやつらにとっちゃ、ただで製品がもらえる上に、報酬だって手に入るんだから、おいしい仕事だよな」

「へえ、いいわねえ。わたしもやろうかな」

「じゃ、とりあえず一〇年ぐらい歩いてみるか?」

「う……それはちょっと」

 口ごもったハルカの横で、ぼくはなるほど、とうなづいていた。

 ぼくたちがお気楽に観光するっていうのも、ムーンウォーカーたちにとってまんざら悪いことばかりじゃないんだ。

 もちつもたれつっていう言葉が頭に浮かぶ。確か、お互いに何かいいことあるよね、という意味だった気がする。

「モニター以外では、本を書いたり、すごいやつでは、牛乳の入った皮袋を腰にぶらさげてチーズを作ってたのもいる」

「あっ、それ知ってる! とっても高いチーズでしょ。ぼく一回食べたことあるよ。あんまりおいしくなかったけどね」

「高いのは、ただ単純にめずらしいからだろうな。ま、そんなこんなで、貧乏なムーンウォーカーたちも何とか旅を続けられるってわけだ。そして、それはムーンウォークで一番大切な――」

「誰もが平等に月まで歩くことができる」

 コウの話の途中で、突然ピコがわりこんできた。

「そうだ――ってあれ? お前さっきからいたよなあ。なんでだ? 全然気がつかなかったぞ。まるで、今ぱっと現れたみたいだ」

 コウが首をかしげる。

 首をかしげたいのは、ぼくも同じだった。今もピコは、ぼくの肩の上にいた。いくら、ピコが軽いからって、乗っているのを忘れることはないはずだ。

 でも、気がつかなかった。忘れていた。ピコっていう存在が、頭の中からしめだされていたみたいだった。ハルカとシンジとコウとぼく。ついさっきまで、その四人で歩いているのが当たり前のように思えてたんだ。

「気になさらないで下さい。少し考えごとをしていただけですので」

「ふうん。まったく、エレメンタルっていうのはよくわからんなあ。さすがレアなだけあるか」

 コウがぼやく。

 その時、ピコがそっとぼくの耳元でささやいた。

「すみませんが、しばらく、さきほどもらったリュックの中に入れておいてもらえませんか」

「ええっ! あんなところに入ったらつぶれちゃうよ」

 自然とぼくの声も秘密の話をしているみたいに小さくなる。

「いえ、わたくしのからだは見た目よりずっと頑丈ですので。とにかく、お願いします」「でもどうして急に?」

 耳元で、ピコのふうっという小さなためいきが聞こえた。

「少し――めんどうなことになるかもしれませんから」

「めんどうなこと?」  

 言い終わらないうちに、ピコはリュックを勝手に開けて中にすべりこんだ。一瞬、みんなの注目が、ぼくのリュックに集まるが、すぐに見向きもしなくなった。やがて、ぼくの頭の中でもピコが、うすぼんやりとしてきた。

 あれ? なんでぼくはリュックをこんなに大事に持ってるんだろう?

 大切なものが入っているとはわかるのに、それが何かはわからない。リュックの口に手をかけると、開けてはいけない、と頭の中で何かが警告する。

 モヤッとしたまま、ぼくはリュックをかかえてみんなの後に続いた。

 

 

 

 ぼくたちは、もくもくと歩いた。途中、ハルカが転んだり、シンジが自分のリュックを落っことしたり、ちょっとしたハプニングはあったものの、順調な出だしだ。

 歩いているだけなのに、どうしてこんなに楽しいのか、とても不思議だった。少ししか寝ていないはずなのに、いつまでも歩き続けることができそうな気がする。

 途中でおじいちゃんのことを思い出した。ハルカに話すと、一緒に悲しんでくれた。ハルカのおじいちゃんはハルカの生まれるずいぶん前に突然消えてしまって、家族はもう死んでしまったんだとあきらめているんだと言う。ぼくがそんなことない、とはげますとちょっとさびしそうに、ありがとう、とつぶやいた。シンジは、聞いても答えてくれなかった。嫌われているのかもしれない。

 歩き始めて二時間ぐらいたっただろうか。シンジが急にもじもじと、落ちつかなげに周りを行ったり来たりし始めた。ぱっと先頭のコウをぬきさったかと思うと、急いで戻ってくる。ハルカが不審そうに聞いた。

「さっきから何やってるの?」

「何でもないよ。いちいちうるさいなあ」

 コウがははあ、と納得したように言った。

「ステーション出る時に、行っとけって念をおしといたのにな。ま、しゃあない。すぐ組みたてられるから、それまで我慢してろ」

 どすんと、ぼくたちのよりは数倍重そうなリュックを地面に置いた。口を開けて、中を確認する。

「お、あったあった」

 そう言ってコウが取り出したのは、握りこぶしより少し大きいぐらいの銀色のかたまりだった。表面にしわがたくさんできていて、紙をくしゃくしゃと丸めたみたいだ。コウが大きな手で広げると、真ん中にでっぱりが見えた。

「ここに、これをくっつけて……と」

 左手に同じように銀色のペットボトルみたいなものをにぎっている。それを、でっぱりにくっつけると、ぼくたちに向かって手をふった。

「よし、ちょっと離れてろよ」

「え、え……?」

 とまどいながらも後ろに下がるハルカとぼく。シンジもお腹をおさえながら、それに習う。

 コウが花火に火をつけるようにスイッチを押すと、ぼくたちのそばまで走りよってきた。すぐに、ぷしゅうとガスがもれるような音が聞こえる。

 それがふくらむ様子は、まるでアニメを見ているようだった。いきなりからだがふくらんで空を飛んでいく――生き物ではなかったけれど、そのうちパンパンにはりつめて、破裂してしまうんじゃないか、と少し怖かった。

 結局、ちょうど人が一人入れるぐらいまで丸く大きくなったら、音はとまった。

「さあ、シンジ入れよ! 早くしないともれちまうぞ」

 お腹を押さえたまま。シンジがコウをキッとにらみつけた。

「ふくらませる前にちゃんと言ってよ」

「おや、ビックリしてちびっちまったか?」

「馬鹿言うなよ。そんなことあるもんか。――ただ、ガイドなんだから、お客には説明する義務があるだろ。ぼくたちはお金を払ってるんだぞ」

 がまんしていたせいか、シンジはコウをののしりながらよろよろと完成したばかりのトイレに近づいた。ごゆっくり、とコウが中に向かって言うと、

「うるさい!」

 と返事が返ってきた。

「さて、おれらはその間少し休息してようか。水は飲んでもいいが、ほどほどにしとけよ。食い物はまだだ。あと、二時間も歩けば、もっとおいしく食えるからその時まで待とう。あ、中にサービスでガム入れといたからそっちは食ってもいいぞ」

 トイレによりかかりながら、コウはポケットからタバコを取り出すと、うまそうに吸い始めた。かすかにハッカのかおりがする。

 のどはそれほどかわいていない。でも、ガムを食べるっていうのは悪くない考えだ。甘いものを食べれば、足も軽くなる。

「先にわたしのガム食べちゃわない?」

「別にいいよ。ぼくだって持ってるんだから」

「でも、わざわざユウのリュックまで開けることもないじゃない。先にわたしのを一緒に食べて、なくなったらユウのを分けて食べましょう」

 ハルカの言っていることは何か変だったけれど、聞いているうちに、そうかもしれないと思うようになった。

 別にぼくのリュックまで開ける必要はない。

 ハルカががさがさと中を探って、ぼうについた小さなキャンディーを取り出した。

「はい。どうぞ」

「へぇ、ガムだけじゃなくてキャンディーまで入ってるんだ。コウってけっこうふとっぱらだね」

 ハルカがきょとんとした顔でぼくを見返す。

「キャンディー? 何言ってるの? これはガムよ」

「へ?」

 形がちがうだけかと思ってぱくりと口に入れてみても、やっぱり甘いキャンディーだ。かんだらガリッと音がして、こまかくくだけた。

「あーあ。ゆっくりなめればいいのに」

 忘れていた。この世界は、ぼくがいた世界とは少し違うんだ。ガムがキャンディーって名前で呼ばれていても、不思議じゃないのかもしれない。

 ほんの小さな違いから、あらためてここはぼくがすんでいた場所じゃないんだ、と気づかされる。月まで歩く、なんてことに比べればささいなことだけど、心がかきみだされた。あまり深く考えないように、ぼくは話題をかえた。

「そういえば、さっきシンジのこと教えてくれるって言ったなかった?」

「ああ、あれね――」

 ハルカはトイレの方を見ながら、うなづいた。

「そうね。何か時間かかってるみたいだし、今のうちに話していた方がいいかも」

「いったい、何でシンジはあんなふうになっちゃったのさ?」

 ぼくはひそひそと聞こえないようにしゃべったけれど、コウはぼけっと天井を見ながら、タバコのけむりでわっかを作ったりしていて、聞かれることはなさそうだった。

「うーん、たぶん原因は……わたし、だと思う」

 ハルカは少し苦しそうな顔をしながら、話し始めた。

 

 シンジは昔はおとなしい性格だったらしい、それこそ、ぼくの世界にいたシンジと同じように、命令されれば文句一つ言わずにしたがったし、どなられたりしてもじっとたえた。それは、横で見ていてはがゆくて、いらいらしてくるぐらいだったという。

「本音を言うと、今のいばりちらしているシンジより、あのころのシンジの方が嫌いかもしれない。今もシンジはときどきウジウジしていることがあるけど、昔はもっとひどかった」

 ハルカがときどきっていうのに、ぼくはちょっとひっかかった。ぼくと初めて会ったときとか、もっと言えばムーンウォークに来るまでは、シンジの性格はこんなんじゃなくて、暗くてあまりじゃべらなかったはずだ。

 そう言うと、ハルカは

「ああ、あれはユウがいたからよ。シンジは初めて会った人の前では、おとなしくなっちゃうことが多いの。コウにはすぐに慣れてしまったけどね」

 と、いうことは、これからシンジはこのまんまだということになる。ぼくは、げんなりした。

「でね、わたしもシンジのことをそんなふうに思ってたわけだから、同じクラスにいるのにほとんど話もしなかった。シンジが他のクラスメイトにいじめられてたりしていても見てみぬふり。別にかばったら一緒にいじめられる、とかそんなことを心配していたんじゃないんだけど、何か嫌だったのよ」

 自分のことだけど、ひどいやつだったと思うわ、とハルカは苦笑いする。けれど、ぼくはハルカのことを笑えなかった。自分だって同じようなもの――いや、友だちのふりしてそばにいるだけもっとひどいかもしれない。

 ハルカはシンジを無視し続けた。というより、シンジが話しかけてくることはほとんどなかったみたいだ。いじめているやつらに連れ出されている時以外は、教室のすみの自分の席に座って、じっと自分の机を見つめていたらしい。どうせなら本でも読めばいいのに、きみょうなやつだ。

「でも、ある日シンジの性格が正反対に変わってしまう事件が起こったの」

 その日、先生たちの健康診断があるとかで、生徒は午前中で帰ることになった。シンジはいつものいじめっこたちに囲まれてひきずられていったらしい。

「別に、自分には関係ないって思ったわ。だって、いつものことだったし。ただ――シンジをいじめているやつらの一人がこう言ったのが耳に入ってきたの。『じゃあ、いつもの犬のところに行こうぜ! あそこの飼い主えさやらないで旅行に行っちまったらしいから、今日こそはかみついてくれるかもしれない』ってね」

 ふだんの子どもっぽいいじめならともかく、犬にかまれたら死んじゃうかもしれない、とハルカは思った。なんでも、近所のおばさんが犬にかまれたあと、病気になって死んでしまったことがあるんだそうだ。

「無視しようとも思ったんだけど、これでシンジが死んじゃったら、わたしは毎日何もしなかった自分をのろいながら生きていかなきゃいけないわ。そんなのは、さすがにいやだった。かといって、やめてと言ったからやめてくれるようなやつらじゃなかったし、先生もあてにならない。きちんと注意してくれるんだったら、元々シンジがいじめられているはずないものね。だから、後からついていって、かまれそうになったら助けようと思ったの」

 大きい犬だったら、子どもの力じゃとてもかなわない。そこで、ハルカは教室から、金属バットを持ち出した。いじめっこたちがお昼休みに野球をするときに使っているものだった。強力な武器だ。

「わたしは見つからないように、後ろからついていったわ。途中、車の陰にかくれながらね。犬のいるうちは、学校からそんなに遠くなかった。シンジたちが犬小屋がある庭に入っていったのを、わたしはへいにかくれながら見ていた。いつでもとびだせるように、バットをかまえてね。今思うと、よく人に見つからなかったなあって。見つかったら、絶対につかまってるわ。だって、バットをかまえてじーっと何かを待っている女の子ってすごいあやしいじゃない?」

 いじめっこたちは、しばらくシンジを放って、犬にちょっかいをかけていた。犬はそうとううえていたみたいで、すきがあれば指をかみちぎってやろうとシンジたちをねらっていた。でも、くさりがあるから、とびかかっても途中で引き戻されてしまう。

 やがて、いじめっこたちもあきてしまったらしく、今度はシンジを犬の牙がとどくはんいにおしやろうとする。シンジはめちゃくちゃにあばれて、一回はにげだしたものの、なにせ相手は数人がかりだ。あっというまにはがいじめにされて、ジリジリと犬小屋に向かって近づけさせられた。

 そこで、さらに最悪なことが起こったのだ。なんと、ボロボロにさびていたくさりが、犬があんまり暴れるので今にもひきちぎられそうになっていた!

「今だ! って思ったわ。わたしは、バットをもったまま、うわー! っとさけびながらかけだしていった。ちょっと正義の味方の気分でいたんだと思う。それほど、大きな犬じゃないし簡単にシンジを助けられるって」

 でも、犬の動きはすばやかった。くさりをちぎり、ふりおろしたバットをすいとよけて、

今度はハルカに向かって飛びかかってきた!

「かまれる! そして死ぬんだって思った。シンジを助けに来た自分がはらだたしかった。クラスメイトの命ももちろん大切だけど、自分の命とは比べものにならないから。かまれる瞬間を見たくなくて、わたしは思わず目をつぶってた」

 どのくらいの時間がたったのか。ハルカはてっきり自分がもうかまれたんだって思ったそうだ。

「でも変なのよね。かまれたはずなのに、全然いたくなかった。もしかしたら、もう天国とも思ったわ。それから、とりあえずまわりを見ようと目を開けた」

 ハルカは目を疑ったという。そこは、天国ではなかった。

 いじめっこたちはみんなにげだして、シンジだけがそこに立っていた。それだけでもおどろきなのに、バットをもって犬と向かい合っていたのだ。犬がとびかかろうとすると、ブンッとバットをふっていかくした。

「すごい目をしていたわ。足はぶるぶるふるえているのに、一歩も動かずに犬とにらみあってた。そして、わたしが起き上がったことに気づくと、『早く逃げろ』ってどなった」 ハルカが安全なところまで下がったのをみはからって、シンジはポケットから何かを取り出した。ふりかぶって投げると、犬はそれめがけて走っていった。

「小さなキャンディーだったみたい。犬が食べるかどうかはわからないんだけど、とりあえずそのおかげで、わたしとシンジは遠くまで逃げられた。まだくさりはちぎれたままだったから、近くの家で警察に電話をして、つかまえてもらえるようにたのんだわ。それから、つかれはてたわたしたちは、ならんで家に帰った。シンジの家がわたしの家の近くにあるんだってことも、このとき初めて知ったの」

 シンジの家の前で、ハルカが助けてもらったお礼を言うと、シンジはてれくさそうに、いいさ、とつぶやいた。

「シンジって本当は、こんなにすごかったんだって。今まで暗いやつだと馬鹿にしていた自分が恥ずかしかったわ。明日からはきっと楽しくおしゃべりできるだろうって思ってた。でも――」

「なぜか、シンジはあんな強気になった、と」

「うん。もういじめられることはなくなったんだけど、かわりにみんなに嫌われちゃったみたいだった。どうどうと自慢するし、汚い言葉も平気で使うようになったからね。でも、シンジは本当はいい人だって知っているから、わたしは、それからよく話したりするようになったんだ。慣れれば気にならないしね」

 ハルカはそう言って、一息ついた。

「ま、そんな感じかな。ユウもいやなこと言われるかもしれないけど、あんまり気にしないでね。たぶん、なんだけど、本気で言っているわけじゃない気がするの」

 シンジの入っているトイレを見る。

「それにしても、遅いわね」

「ほんと。ゲリでもしてるのかな?」

 コウも待ちくたびれたのか、すわりこんで眠っているように見える。今にもくわえたタバコが落ちそうだ。

 ハルカとぼくは、二つめのガムじゃないガムをほうばると、月に着いた後何をするか、なんてことを話し合った。

 シンジがげっそりとした顔でトイレから出てきたのは、それから一〇分ぐらいたってからだった。   

 

      

 

 トイレを片付け、ぼくたちはふたたび歩き出した。三〇分ぐらい止まっていたせいで、いくつかのグループに追いぬかれている。今も、すぐ後ろに、三人ほどのグループがついてきていた。

「時間大丈夫かな?」

 ぼくがぼそりとつぶやくと、シンジがつっかかってきた。

「何だよ。ぼくが悪いって言うのか?」

 怖い目でにらみつける。

「いや、別にそういうわけじゃないよ。トイレだったんだから、しょうがないし。ただ、スケジュールが変わるのかな、ってちょっと思っただけさ」

 ハルカの話を聞いてから、シンジに対してどんな態度をとったらいいのか、よくわからないでいた。ついつい、答えもあいまいな感じになってしまう。

 フン、とシンジがそっぽを向いて、ぼくたちは何となく気まずいふんいきの中、しばらく会話らしい会話もせずに歩き続けた。

 そんなちんもくを破ったのは、ぼくら三人でもなく、コウでもなかった。

 いつのまにか、後ろから追いついてきていた、三人組が声をかけてきたのだ。

「やあ、元気で歩いているかい?」

 話しかけてきたのは、三人組の中でもとくにおだやかな顔をした男だ。他の二人はサングラスをかけ、まるでボディーガードみたいに見える。その男を見た瞬間に、コウの顔が複雑にゆがんだ。

「まあ、ぼちぼちですよ」

「冷たいなあ。幼なじみに、そのたいどはないだろ」

 驚いたことに、男とコウは知りあいだった。しかも幼なじみなんて!

 でも、コウはあまりそのことを快く思っていないみたいで、ろこつに顔をしかめ、早く立ち去ってくれないかな、という表情をしている。小さいころにいやな思い出でもあるんだろうか?

 コウのつれないたいどに、男はかたをすくめて、今度はぼくらの方に向かって言った。

「君たちはどうだい? 刺激も何もない退屈なたびだと思うが、楽しんでるかい?」

 皮肉っぽい言い方に、シンジのまゆがつりあがる。

「ええ、おかげさまで!」

「そうか、それは何よりだ。観光に来て楽しまないなんて損だものな」

 男は、ニコニコしたままムスッとしているシンジに顔を近づける。一番まともであいそよくしているけど、この人もどこか変だった。くるりと回転して、今度はハルカの

前に立つ。そこで、おやっという表情をした。 

「君は――」

「悪いんだが俺たちは急いでるんだ。スケジュールも押してるんでな。用がないのなら、放っておいてもらえないか」

 コウが、いらだたしげに言う。よからぬことを考えているのならこっちだって黙っちゃいないぞ、と顔に書いてある。おおかみのように、すきを見せずにかまえていた。

「ああ、悪い悪い」

 男がちっとも悪いとは思ってなさそうなにこやかな顔で答えた。

「用がないわけじゃないんだ」

「そうか。それなら、早く言ってくれ」

 そして早く帰れ、とぼくも心の中で続ける。

「そんなあせるなよ。ちょっと聞きたいことがあるだけなんだ」

 そう言って男は、何かカードのようなものを取り出した。スライドさせると、ボウッと空中に何かが浮き上がった。

 ぼくたちは息をのんだ。

「どうだい。心当たりはないかな?」

 ないわけなかった。浮き上がっている像は、コウモリの顔にくまのからだをくっつけたようなぬいぐるみ。

 ――そう、ピコだ!

「確か、エレメンタルよね、それ。テレビで見たことあるわ。ぬいぐるみみたいだけど、ちょっとぶさいくね」

 ハルカの言葉に、男がうなづく。

「うん、そうだ。で、本物を見たことは?」

「だから、テレビで見ただけだってば」

 ぼくたちの目がおよいだのに気づかれてないだろうか。めずらしい生き物を見たときの驚き、とかんちがいしてくれたらありがたい。みんな、ピコのことは知っている。いや、知っているどころじゃない。思い出したけれど、ピコはぼくのリュックの中に入っているのだ。今、この瞬間だって!

「ふうん。他のみんなはどうだい? 本物を見たことはないかな? しかもごく最近――例えば、今回ムーンウォークに来た時、とか?」

 こいつは知っているんだ! ピコがここにやってきていることを。

「ううん、見てないよ。ぼくもテレビで見ただけさ」

 足がふるえそうになったけど、できるだけれいせいに答えた。シンジやコウも同じようにうそをつく。ばれやしないか、とはらはらしながら返事を待った。五分ぐらいだまって見つめられていたら、はくじょうしてしまっていたかもしれない。でも、幸運なことに男はあっさりと認めてくれた。

「そうか、わかったよ。ご協力ありがとう。もし、何か気づいたことがあったら、連絡してくれ。あと、コウ。たまにはうちに遊びに来てくれよ」

「気が向いたらな」 

 男は番号を書いた紙をコウにわたすと、なぜかハルカの顔をもう一度マジマジと見てから、ボディーガードたちと一緒に先へと歩いていった。

 男たちが小さくなってほとんど見えなくなったのをみはからって、ぼくはリュックに声をかけた。

「ほら、もう出てきていいよ」

 リュックの口がむくむく、と持ち上がってピコがあらわれる。人間ではないけれど、ピコの顔にはぼくたちと同じような心配がうきでているような気がした。

「やはりめんどうなことになってしまいましたね」

 ふうっとため息をついた。

「どういうことなんだよ。説明しろよ」

 シンジは今になって恐ろしくなってきたのか、足がガクガクとふるえている。

「とりあえず、歩きましょう。コウさま、一番近いステーションはどちらです?」

「ん、そうだな。ここからだと、少し前に通り過ぎたところだな。ただ、あそこはムーンウォーカーのたまり場だからなあ。観光客は歓迎されないぞ」

「仕方ありませんね。それに、この先のステーションではさっきのやつらにはちあわせてしまうかもしれませんから」

 そう言うと、ピコはふわりと浮いて今歩いてきた方向を戻り始めた。

「さあ、何をしているんですか。行きますよ」

「ちょっと待てよ。別にここで説明してくれたっていいだろ。あいつらだって、しつこく聞いてこないみたいだったし、もう来ないって。また一回ここに戻ってくるの、めんどうだよ」

 シンジが文句を言う。

「そんなに心配しなくても大丈夫ですよ。ここには戻ってきません」

「どういうこと?」

 ハルカが不安げに聞く。ぼくもピコの様子から、何となくいやなふんいきを感じていた。

 ピコがきっぱりと言う。

「みなさまにはステーションから地球へと戻っていただきます。ムーンウォークはここで終わりです!」

 

 当然、ぼくたちは反対したが、ピコは自分の考えをまげようとはしなかった。

「ピコだけがねらわれてるんだろ? じゃあ、お前だけ帰ればいいじゃないか」

 シンジがはくじょうなことを言う。でも、ぼくも実を言うとシンジの考えに賛成だった。ここで終わりだなんて納得できない。

 それにしても、どうしてピコがねらわれるんだろう。エレメンタルは確かにレアみたいだけれど、あれほど大がかりに探すのも何か変だ。それに、さっきの男たちは、エレメンタルというよりも――ピコだけをねらっていた。つまり、ピコは特別なんだ。

「なあ、ピコ。おれはあいつを昔から知っているが、それほど悪いやつじゃないと思うぞ。確かにいけ好かないが、少なくともゆうかいなんてしないはずだ。それに、もし、それでも帰るというのなら、せめて子どもたちに納得するような理由を話してやるってのが筋じゃないか?」  

 コウがぼくたちを見ながら言う。ピコがまた、ためいきをついた。こういうしぐさは本当に人間にそっくりだ。

「くわしいことは、話すわけにはまいりません。ですが、あの男たちが危険なことは保証できます。みなさんも気づいておられたと思いますが、わたくしが何度か気配を消していたのもそのためです」

 そうだったのか。ぼくはさっきからピコが急に消えたり現れたりしたことが不思議だったけど、このためだったんだ。でも、

「それなら、どうしてわざわざここまで追ってきたの? 別に地球で声をかけてくればよかったのに」

「それは、この場所が都合がよかったためです。それ以上は……すみません。言えないのです」

「それじゃあ、何も説明していないのと変わらないだろ!」

 シンジがドンっと壁をたたく。ピコが悲しそうにつぶやいた。

「話すことはできないのです。話してしまうと、さらに危険な状況になってしまうかもしれないのです。とにかく、今はわたくしを信じてください」

「そんなの無理だ!」

「……そうね。わたしも、そんな答えじゃ納得できないわ。ピコは信じてあげたいけど、ムーンウォークもあきらめられない。行ったら死んじゃうなんて言うのならそりゃあやめるけど、だってコウの知り合いでしょ。そんなひどいことするとは思えないわ」

 ハルカまでもがピコの敵にまわった。かわいそうだけど、ぼくもうなづいて、

「ぼくもムーンウォークを最後まで続けたいよ」

 とたたみかける。

「そういえば、さ。ピコをさがしているってことは、あいつって探偵か何かなの?」

 ハルカの問いにコウは困りはてたように頭をかいた。

「う、うんそれに近いものではあるんだが」

「近いって?」

 コウは言ってもいいものかどうか、ちらりちらりとピコを見ていたが、やがて意を決したように、話す。

「あいつは――警察なんだ」

 ぼくたちは言葉を失った。

 本当に、「ねらっている」のではなくて「探している」んだ。

 警察が探すものと言ったら――そう、犯罪者だ!

 正確に言えば人ではないけど、この際そんなことはどうだっていい。ぼくたちは、戻ろうとしているピコのそばから、急いで離れた。ハルカまでもが、ジリジリと後ろに下がっていく。

「おじょうさま……」

「寄らないでよ!」

 ハルカにはねつけられて、ピコは全身の毛がぺたんとはりついてしまった。たぶん、死にたくなるぐらい悲しんでいるんだろう。ぼくは、さすがにかわいそうになる。

「ねぇ、ハルカ。そこまで怒らなくても……」

「だまっててよ! だって、ピコは警察に追われているってことを今までずっと一緒にいたわたしにも隠してたのよ。もしかしたら、ピコは悪くないかもしれない。でも、わたしに隠してた。知っていたのに隠してたの。信じたくても、相手がわたしのことを信じてくれていないんじゃ……」

「そうだ! 何があの男たちは危険、だ! 危険なのはお前の方じゃないか!」

 めちゃくちゃに言われて、ピコは今にも消え去りそうに小さく見えた。 

 くるりとふりかえる。泣いているのかもしれない。

「さあ、さっさと帰れよ」

 シンジの言葉につらそうな顔をしたのはピコだけではなかった。コウも自分のせいでピコを追いつめることになったことを悔やんでいるみたいだった。しょうがない。コウは知っていることを正直に言っただけだし、もし口をにごしたりしたらシンジやハルカがだまっていない。もちろん、ぼくだって本当のことを聞くまで納得しなかっただろう。だから、コウは悪くない。

 それでも、コウはこちらに顔を見せないピコを心配そうにみつめる。それは、オオカミ男だ、とおどけていた時とはまるで別人のような姿だ。もしかしたら、こっちの性格が本物なのかもしれない。おおざっぱそうに見えるのは、ただ強がっているだけで。

 ピコはだまったまま、ぼくたちとは反対の方向へ歩き出す。ぼくには、どうすることもできなかった。いや、これしか方法がないんだって自分に言い聞かせていただけかもしれない。

 警察に追われているっていうのが怖かった。えたいのしれない男が怖かった。そして、それ以上に、ムーンウォークへ行けなくなるのが怖かった。全部、自分のためだ。

 一メートルぐらいすすんで、ピコは止まった。ぼくの中に希望の光がポッとともる。

 考え直してくれたのか。ぼくたちと一緒に行くことにしてくれたのか。すべてがまるくおさまることを、ぼくは祈った。

「……コウさま。わたくしが帰った後、あの男たちと関わらないと約束してもらえませんか?」

「ああ、大丈夫だ。子どもたちには近づけさせねえよ」

 ピコは少し考える様子を見せた後

「ありがとうございます。……それならば、わたくしがいない方が安全かもしれませんね。

それではみなさま、よい旅を」

「も、もたもたせずに行けよ」

「はい……最後に、一つだけ。……おじょうさま、わたくしはおじょうさまやお父上、お母上に顔向けできなくなるようなことはやっておりません。それだけは……信じてください」

 そう言いおくと、するすると空中に浮きながらぼくたちのそばから、今度こそ本当に離れていってしまった。そっとハルカを見ると、くちびるをかんでぐっとこらえていた。本当は、ピコと一緒に帰りたかったのかもしれない。ぼくとシンジ以上に、ハルカはムーンウォークを楽しみにしていた。でも、きっとハルカが一人で来ていたらピコと一緒に帰っていた。そんな感じがする。

 今のハルカを見ていたら、ピコはムーンウォークよりもずっと大切な存在なんじゃないかって思えてくる。まさか、帰ってピコを追い出すことはないと思うけれど、今までよりもぎくしゃくとした関係になってしまうのは間違いない。帰ろう、と一言言えなかった自分が、少し情けなかった。

 

 

 

 月へ続く道は平らで、むしろ下っているはずなのに、今はまるで山にでも登っているかのように一歩一歩が重く感じられた。足が前へ進むのをいやがっているみたいだ。それは、ハルカはもちろん、あんなにピコを追い出したがっていたシンジさえも同じで、コウの後を力なくついて歩いていた。

「なあ、大丈夫か?」

「何が? だって、あいつが悪いんだから、こうするしかないじゃないか」 

 心配そうに聞くコウに、シンジは強がって答える。でも、その声にさっきまでの力はなく、気になっている様子を隠しきれていない。

 やりきれなくなって、窓の側に寄る。壮大な景色が、少しでも今の気持ちを変えてくれるんじゃないかって期待をした。でも窓から見える星は、まるで闇の中に吸い込まれていくように見えて、いっそう心が沈むだけだった。イライラして、硬いガラスのようなものでできている窓を叩く。これをぶち破ったらどうなるんだろう、なんていうひどい妄想が頭の中をかけめぐる。やっぱり映画みたいにそこから空気が抜けていって、近くにいるぶくたちは吸い出されていくんだろうか。それとも、この道の外側には、さらに魔法の膜が張られているんだろうか。

 ゴツンゴツン。

 叩く音は次第に大きくなっていく。最初の窓は指一本で、次の窓は指二本で叩く。最後には、にぎりこぶしをつくって窓をなぐっていた。

「……ユウ。おい、ユウ!」

 気がつくと、コウに手をつかまれていた。

「どうしちまったんだ、いったい」

「ううん、別に。気にしないでよ」 

「気にしないでって言ったってなあ」 

 どうしようもなくモヤモヤとしたものが腹の中に居座っていて、いごごちが悪かった。こんなはずじゃなかった。ぼくたちは、三人と一匹で、何事もなく旅行を楽しむはずだった。

 それが今は、ぼくはイラついて窓を叩いているし、ハルカは地面を思いっきり蹴りつけながら歩いている。シンジは、せっかくの宇宙も、幻想的に光る道もまるで目に入らない

かのように、ただもくもくと前に進んでいるだけだ。

「おいおい、ゾンビでも歩いてるみたいだぞ。俺はオオカミ男だが、ゾンビっていうやつだけは、好かん。ドラキュラは高貴だ。フランケンシュタインは怪力で、半魚人もまあ海の中で生活できるってのは人間にはない魅力だよな。だがな、ゾンビはどうだ。あのただれた姿で、のたのたと歩いているのをみると吐き気がするよ」

 コウは皆の頭をポンポンと叩いてまわると、続けて言った。

「あのなあ。お前たちは、ムーンウォークを続けるって決めたんだ。確かに、あのピコには悪いことをしちまったかもしれない。お前たちが、そのことで悩んでいるのもよくわかる。でも、すぎてしまったことはしょうがないじゃないか。それに、ピコはお前たちにムーンウォークを楽しんでもらいたくて、あえて自分の意見を曲げてくれたんだろう? それなのに、お前たちがこんな様子でどうするんだ。今は、ややこしいことは忘れて楽しんどけよ。な?」

 ぼくたちは、しばらく何も言わなかったけれど、やがて一番落ち込んでいたハルカが顔を上げて言った。

「わかったわ。うん。ピコには帰ってからしっかりと謝る。そして、ムーンウォークの話をたくさんしてあげるの!」

「そうだ。いいぞ。それなら、俺もガイドのしがいがあるってもんだ。ゾンビ相手にはごめんだが、元気な小学生相手となると……こりゃあ負けないようにはりきって説明しないとなあ」

 うれしそうに言って、ドスンとリュックをおろすと、中から蛍光色のふくろを取り出した。それから、水筒に茶色の容器――これは弁当箱みたいだ。あらかた並べ終えると、ぼくたちも自分のリュックから取り出すように、手で示した。

「さて、皆が元気になったところで、おまちかねの食事アーンド昼寝タイムだ。今回食うのは、実際にムーンウォーカーが持ち歩いているものの中から、代表的なクッキータイプの――これだ」

 しかし、コウが弁当箱のふたを開けると、中から現れたのはクッキーと言うよりは、平べったいのりのようなものだった。弁当箱の底に数枚へばりついているだけで、とうてい食事とは言えそうもない。

「本来ならこの箱にめいっぱいつめておくんだが、今は一食分なんでちょっと貧相に見えるかもしれんな。だが、これでどうかな?」

 水筒を傾け水を少したらすと、みるみるうちに丸い菓子パンぐらいのサイズまでふくらんだ。理科の実験で作ったスライムにちょっと似ている。あれは、しばらく忘れて放っておいたら、カラカラに乾いて紙みたいになっていた。

「いただきまーす」

 まっさきにハルカが手を伸ばした。ぼくとシンジも続いて残ったクッキーを取る。

「ちょ、ちょっと待った。俺のじゃなくて、自分たちのを食えよ」

「もちろん、食べるわ。これを食べた後でね」

 なんてこった、と頭をかかえたコウは、やがてあきらめたようにタバコをくわえた。けむりを吸っているだけなのに、なぜか食事をしたように満足げな顔をしているのがちょっと不思議だ。

 肝心のクッキーの味はというと、美味しいとは言いづらいものだった。でも、不思議と何枚食べても飽きない。とても長い旅には、こっちの方が重要なのかもしれないな、とサクサクと軽い歯ごたえのクッキーを食べながらぼくは思う。それに、何となくざわついた心も落ち着いてきた気がする。

 もちろん、まだピコのことをわりきって考えるのは無理だけれど、気分はだいぶ楽になった。少しは周りをながめる余裕もでてきた。

 ぼくが、ちょうど後ろを見たときだった。一人の老人がこちらへ向かって歩いてくるのが見えた。ガイドもつけず、たった一人で道をすすむ老人――ムーンウォーカーだろうか。もしそうだったら、ぼくたちのような観光客と出会うのにいい顔はしないかもしれない。

ぼくは、コウに声をかけようかと思ったけれど、それよりも早くコウの声があたりに響いていた。

「ありゃあ、じいさん。また、こんなところでたむろってるのか。もうとっくにくたばっただろうから、今度月に墓でも建ててやろうと思ってたのによお」

 しわがれた声がそれに答える。

「勝手に殺すな。それよりも美味そうなもん食っとるじゃないか。わしにも一つくれんか。ステーションの飯は味はいいが、毎日食うと飽きるもんでな」

 とても老人とは思えない軽快な足取りでひょいひょいとぼくらの横まで来ると、返事も待たずにシンジの弁当箱から、クッキーを一つ奪い取った。

「おお、これじゃこれじゃ。何十年と食べ続けてきた味。懐かしいのお」

 あまりに突然のできごとに、クッキーを取られたシンジもあ然としている。ただ一人、コウだけが変わらない調子で話し続けた。

「ステーションで買えばいいだろ。普通の飯よりずいぶん安くつくはずだぜ」

「金を払ってまで食おうとは思わん。それに、たまに食うから美味いのではないか。旅行者から頂戴すれば、ただだしな」

「まったく、相変わらずひねくれてるなあ」

 そこで、コウはやっとぼくたちがポカンと見ていることに気づいたようで、老人を指し示して笑った。

「ああ、悪い悪い。説明するのを忘れていた。と言っても説明するようなやつでもないんだがな」

「このムーンウォークの大ベテランをつかまえて、何を言うか。お前にガイドの基本を教えてやったのを忘れたのか?」

「ああ、覚えてるさ。観光客が弱音をはいたら引きずって連れて行け――だったか? 最初のガイドの時にその通りにやったら、怒ってガイド料ももらえなかったよ」

 どうやら、老人がムーンウォーカーだと思ったぼくの勘は当たっていたみたいだ。でも、この様子だと相当長い間この近くにいるらしい。ここは、もう月の目の前だ。数時間も歩かないうちに、目的地に着くはずなのに、どうしてウロウロとしているんだろう。

 ぼくの疑問などおかまいなしに、コウと老人の掛け合いは続く。

「さて、あんたのことをこいつらに何と説明したらいいか……」

「じゃから、ベテランムーンウォーカーでよいだろ?」

「ベテランねえ」

 どうにも納得できないといったふうにコウは首を振る。

「まあ、地球からここまで来るのに通常の二倍近くの時間がかかっているわけだから、ベテランとも言えるかもしれんが、普通に考えりゃ旅が下手、あるいは体力が無いだけだよなあ」

「そう言うな。確かに、三〇年近く歩き続けたが」

「三〇年!」

 思わずぼくは叫んでいた。老人が嬉しそうに目を細める。

「ああそうだ。二〇歳で会社を興して、四〇歳の時にはもう使い切れんほどの金を持っていた。じゃが、むなしくなったのだ。金が増えても、その使い方がわからん。結局のところ、無意味なことをしているんではないか、とな。そこで、四一歳の誕生日の日に会社を家族に譲り、財産の一部を持ってムーンウォークに出発した。そのころはムーンウォークもできたばかりで設備も整っていなかったから、そりゃあ辛いたびだったぞ。だが、それだけに充実した旅でもあった」

 昔をなつかしむ目をした老人を、コウは馬鹿にしたように見て言った。

「旅をなつかしむんなら、それが終わった後にしろってんだ。地球じゃ、家族も待ってるんだろ。こんなところで油を売ってないで、早く帰ってやれよ」

「そう、だな。そうだよなあ」

 そう言いながらも、ぼくには老人が今日もいつものステーションに戻るんだろうという気がしていた。コウもそう思っているのか、

「じいさん、ステーションに戻る前にこれ手伝ってくれないか」

 と蛍光色のふくろを差し出した。

「ベテランなんだろ。じゃあ、俺が手本を見せるよりよっぽどうまくやれるはずだよな」

「ほう、寝袋か。最近の観光ではこんなことまでやっているのか」

 そう言いながら、ふくろの端を持ってブンと一振りすると、からだの長さほどまで伸びた。どうやら、それに入って寝るらしい。

「ようし、わかった。で、コウお前はどうする」 

「俺は予備のを持ってるから同じようにやるさ。あんたの手本を見ながらな」

 苦笑する老人が、ふくろの口を大きく開ける。そして、ズボンをはくように一気にすべりこんだ。

「さて、ここからが面白いところだ。しっかり見とれよ。まず、ふくろの中にある丸いボタンを押す」

 シューっという音がしたので、トイレの時のようにふくらむのかと思っていたら、さらにすごいことになった。ふくらんだ寝袋は、まるで気球みたいにふわふわと浮いたのだ。天井につかえてやっととまる。

「次に三角のボタン」

 言うと同時に、老人の入っている寝袋が消えてしまった! 

 しかし、よく目を凝らしてみてみると、寝袋が壁の色に溶け込んでしまっただけとわかった。今まで歩いてきて、浮いている寝袋に出会わなかったのは、こういう仕かけがあったからなんだ、とぼくは感心する。

「で、お好みで四角のボタン。これは特殊なボタンでな、そこからじゃわからんかもしれんが、押すことで、壁の一部分が透明になる。つまり、宇宙をながめながら寝ることができるわけだ」  

 ぼくらは、老人の言ったとおりに寝袋を操作し、それぞれ道に並んで浮かんだ。もちろん、四角のボタンも押す。

「二時間後に起こすからな。それまでゆっくりと休めよ」

 そういうコウの声に、ぼくはとてもじゃないけど眠れるわけがないと思っていた。ゴロンと横になったままパンくずをちらしたような星空をながめていると、眠るのがとてももったいなかった。

 でも、ぼくは昨日の夜眠っていないことを忘れていた。寝袋に入った空気はほんのりとあたたかい。星の数を数えたり、流れ星を見つけたりしているうちに、いつしかぼくの目は星も何もないただ真っ暗な闇につつまれていった。

 

 

 

 叫び声が聞こえる。初めは悪い夢を見ているんだ、と思った。きっと、星空なんかを眺めて眠ったせいで、宇宙海賊におそわれた夢を見たんだ。ぼくは何とかもっといい夢に方向転換しようと、目をつぶったままじーっと月にうさぎのようなかわいらしい宇宙人が出てくる様子を思い描いた。

 けれども次の瞬間には、ぼくはしぼんだ寝袋にくるまれたまま、コウの腕の中にドスント着地していた。からだにからまる寝袋をおしのけて立ち上がると、目を真っ赤にはらしたシンジと、汗をダラダラと流しているコウがいた。

 あれ? ハルカはどこに行ったんだろう?

「ねえ、ハルカは?」

 コウがひたいの汗をぬぐった。ふーっふーっと大きく肩で息をしている。そして、悔しそうにつぶやいた。

「……間に合わなかった」

「え?」

 シンジが自分の頭をガツンとなぐりつけた。

「くそっ。ぼくが悪いんだ! くそっ! くそっ!」

 たんこぶで頭が一回り大きくなってしまうんじゃないかと思うほど、めちゃくちゃに叩き続ける。いったい、何があったって言うんだ?

「シンジ、やめなよ。おかしいよ、二人とも。それにハルカはどこにいるのさ?」

「だから、間に合わなかったんだ。連れて行っちまったんだよ。大きな音がするっていうんで、俺とシンジが気づいて降りてきた時には、もう小型の車に載せられてた。ちくしょう。やっぱりピコが正しかったって言うのか。あいつは――あいつは、そこまで悪いやつだったのかよ!」

「ぼくがピコを信じなかったから、一緒に帰らないで追い返したりなんかしたから」

 口々に叫ぶ二人を前に、ぼくの頭はぐちゃぐちゃになっていた。

 ハルカが連れて行かれたって? それも、さっきの男たちに? どうして?

 色々と聞きたいことがあったけど、何から聞いたらいのかわからない。おろおろと二人を見ていると、先にコウがふうっと息を吸い込んで、冷静さをとりもどし言った。

「ユウ。お前が寝ている間にハルカが連れ去られたんだ。犯人はさっき会った三人組の男たちだ。とりあえず、じいさんが近くのステーションに助けを求めに行った。しばらくしたら、警備員たちがやってくるはずだ」

「そんなの待ってられないよ!」

 シンジが、狂ったように言う。

「だって、それまでハルカが無事でいるかどうかなんてわからないじゃないか! 警備員なんかと一緒に行ったら……」

 あの男たちはピコのことをさがしていたんじゃなかったのか?

 それに、どうしてもう一度ぼくたちところへ来たんだろう? 知らないって言ったのに。演技がまずかったんだろうか。それとも――。

 そう考えて、ぼくは男たちのリーダーがハルカの顔をしげしげと眺めていたことを思い出した。

「シンジ、どうしてハルカが連れて行かれたかわかる?」

「そりゃあ、女の子で力も弱いし、ピコと一番仲がいいからじゃないか? そうだ、あいつらはまだピコのことあきらめてなかったんだよ。ハルカはピコを連れてくるまでの人質なんだ!」

 そんな理由じゃないはずだ。だって、どう見たってひょろひょろしたシンジの方が連れて行きやすそうに思えるし、あの時ピコと一緒にいたのはぼくだ。

 それなら、偶然連れて行かれたんだろうか。寝袋の中は見えないんだし、とりあえず誰かを連れて行ければいいと思ったのか? 

 ――いや、だめだ。もしかしたら、コウや全く関係ない老人に当たる可能性だってあった。つまり、最初っからハルカを誘拐するつもりだったんだ! 

「どうしよう。ねえ。ぼくピコにあんなこと言っちゃったし、もう戻ってきてくれないよう」

 シンジが泣きながら言った。

「ぼくたちで助けるんだ」

 二人が、えっ? という顔でぼくを見つめた。

「そんな、無理だぜ。そりゃ俺は腕っぷしにはそこそこ自信があるがよ。なんぜ、相手は三人だ。とてもじゃないが、全員ぶちのめすなんて……。それに、あいつにはかなわねえよお。おとなしく警備員を待とう」

 大きなずうたいを震わせてコウが言った。何やら、あの幼なじみだっていう男を怖がっているようだった。

「ぼく思うんだけど、ハルカが連れ去られたのは、力が弱いとか、そういう理由じゃないんじゃないかな。人質っていうのも違うと思う。それなら、はっきりそう言うはずさ。ピコを連れて行く場所も言わないなんていくらなんでも変だ」

「じゃあ、どうして。どうしてハルカが」

「あの男はピコをさがしていたけど、ハルカもどこかで見たことあるなって顔をしてた。これはぼくの想像だけど、探していたのはピコだけど、ハルカでもよかったんだ!」

「何だって!」

 目を見開いてシンジが言う。当然だ。ピコに隠し事をされてた上に、ハルカにも同じような秘密があるかもしれないのだから。

「もちろん、ハルカがどんな秘密を知っているかまでは、ぼくにもわからない。けれど、もし、本当にハルカが何か大事な秘密を持ってて、男たちがそれを聞き出したとしたら……その後は……」

 最悪の想像に、ぼくの全身が氷の中に入れられたようになった。コウとシンジも同じらしく、青ざめた顔をしている。

「時間がない、というわけか」

 ポツリとコウがつぶやく。

「良識ある大人としては、俺はお前たちまで危険に巻き込まれるのを防がねばならん。だが、ハルカを助けるのには俺一人の力では無理なのも確かだ」

 ぼくとシンジを交互に見て言った。

「……一緒に行ってくれるか?」

「当たり前だよ」

 とシンジがうなづく。ぼくもこくりと首を縦にふった。

「ようし。都合のいいことに一方通行。あいつらの行った先には月しかねえ。離れていると入り口が見えないようになっているが、三〇分ほど歩けば見つかる。じゃあ、行くぞ!」

 ぼくたちは、ぐっと気合を入れて、とてもすぐに途切れるとは思えない道を歩き出した。

 

 

 

 半信半疑だったが、コウが言ったように、月の入り口まではほんの三〇分ほど歩くだけで着いた。ある所まで進むと、ポッと五メートルほど先に扉が見えたのだ。 

「着いちまったな」

 コウは、それがまるで残念なことのように言っているが、別にハルカを助けたくないわけではないことはわかっている。ただ、ここまで来る間に三人で頭を悩ませたのに、いい救出方法が思い浮かばなかったのだ。

「しょうがねえ。この先は、いったんロビーのようになっていて、そこから月までエレベータ――正確に言えば小型宇宙船が往復している。エレベータは一定の間隔で動いているから、あいつらがまだここにいる可能性は高いな。おい、ユウ、シンジ。お前らはこれを使え」

 コウの手に、長い筒のようなものが二本握られていた。

「花火だ」

「花火?」

「そう。月でお前たちに遊んでもらおうと思って用意していたんだ。地球をながめながらの花火も、なかなかおつなもんだろ? ま、今回は途中で使っちまうがな」

「これで、どうするの?」

 ぼくの世界とは違うんだから、花火と言っても何かとんでもない機能がついているんじゃないかと期待した。

「めくらましにゃなるだろ?」

 どうやら、本当にただの花火みたいだった。無いよりはマシっていうぐらいだ。

「その筒についている紐をひっぱれば火花が吹き出るから、お前らはそれで横のボディーガードみたいなやつらをひるませてやれ。その間に、俺がハルカを奪い返す。いいな?」 のどがからからに渇いていた。その様子を見て、コウがぼくの背中をドンと叩く。

「おいおい、大丈夫か。あんまり緊張するなよ。もしかしたら、あいつらはもう月に降りていて、ここにはいないかもしれんぞ。それに、上手くすりゃ、係員や観光客を味方につけられるかも」

 元気付けられながら、扉の前にたつ。シンジの家で見たように、扉に三人の形の穴が開いた。

 ロビーはそれほど広くなく、道と同じように壁全体がぼんやりと光っている。エレベータらしいのは一つしかなくて、それ以外にはほとんど何も見られないシンプルな部屋だ。その中で、ぐるぐるに縛られた係員らしき人と観光客数人がとても目立って見えた。そして、にこやかな笑顔を浮かべた男の前でうなだれるハルカの姿。

「ハルカを離せっ」

 まずシンジが飛び出していった。あまりの怒りでうちあわせた内容なんかふっとんでしまったらしく、ハルカに向かって一直線に走っていく。

「おやおや、こりゃあなつかしいお客さんだ」

 リーダー格の男がにやにやしながら、ぼくたちを見て、それからすっと手をふった。飛び込んできたシンジを、横のボディーガードが受け止める。シンジは、手をめちゃくちゃにふりまわしているのに、まるで暴れる小動物をおさえるように簡単に止められている。

しばらくすると、腕をとられ完全につかまってしまった。

「何てこった!」

 元々勝算のある計画じゃないけど、シンジがつかまったことでハルカを救い出すのはほとんど絶望的に思えた。

 コウもそれを感じたらしく、むやみに突っ込んでいこうとはせずに、じりじりと距離をはかりながら、男に話しかけた。

「おい、ハヤト何やってるんだ! これは誘拐だぜ、自分のやっていることわかってんのか?」

 ハヤトと呼ばれた男はあいかわらず笑顔をくずさないまま、コウを見る。

「わかってるかって? そう言いたいのは俺の方だよ、コウ」

「何?」

「あのエレメンタル――そして、この娘の価値が君にはわかっているのか?」

「わからないね。確かにエレメンタルはレアだと聞いているが、ハルカは普通の小学生だろう? お前たちが何故それほどまでにこだわるのか、俺にはわからねえよ」

 やれやれ、とハヤトが肩をすくめる。

「言い方が悪かったかな。価値と言っても、それ自体の価値ではなく、それが持っている情報のことだ」

 やっぱり何か秘密があるのか。ピコも、そしてハルカも。

 ハルカはそれほど手荒にはあつかわれていないようなので、それだけは幸運だった。でも、いつ紳士ぶっているハヤトの仮面がはずれるかわからない。秘密を聞き終えたら、あるいは何も知らないとわかったら、ひどい仕打ちをしてくる可能性は十分にあった。

「ねえ、ハルカ、ぼくにも何か隠してたの?」

 とらわれたまま、シンジが悲しそうに言った。

「知らない。知らないわ、わたし」

「知らないなんてことはないはずなんだがなあ」

 ハヤトがいやらしく笑う。

「いったい何を聞き出そうってんだよ?」

「単純なことさ、実に単純なことなんだよ」

 しかし、ハルカは首を大きくふると、

「単純? 言っている意味がわからないわ」

「そんなはずはないだろう?」

 笑顔がピクピクと震えていた。まずい。そろそろ我慢の限界なのかもしれない。ハヤトがグィッとハルカの腕をつかんでひねりあげた。

「痛い!」

「そうだな。痛いだろうな。じゃあ、知っていることを全部話してくれないかなあ」

「そ、そんなこと言っても……」

 口ごもるハルカに、ハヤトは続ける。

「さあ、月はどこにあるのか教えてもらおうか!」

 

 

 

 ぼくたちはみんな、とんでもなくまぬけな顔をしていたと思う。それほど、ハヤトの言ったことはとっぴょうしもなくて、意味がわからなかった。

「月? 何を言ってるんだ、お前? 月ならあるだろ、すぐそこに」

 コウがエレベータの方向を指差した。

 その通りだ。あれに乗れば、すぐに月面につくはずだった。けれども、ハヤトの顔はとても冗談を言っているようには見えなかった。

「コウ。やっぱりお前もそう思っているのか。かわいそうになあ。真実を隠された民衆ほど哀れなものはないよなあ」

 ハルカに向き直る。

「ほら、教えてやってくれないか。みんなが知らずに困惑している姿は見ていられない。さあ、われらがいかに無知で、いかに損をしていたのか、真実を話してくれよ」

 ハヤトはまだハルカが何か隠していると思っているらしく、つめよった。けれども、ハルカはポカンと見つめるだけだ。もしかしたら、本当に何も知らないんじゃないだろうか、という考えが頭をよぎる。ハルカがぼくたちにうそをついていなかったのはとてもうれしいことだけれど、少しまずいかもしれない。

 案の定、何も答えないハルカにいらだって、ハヤトの笑顔がますますひきつっていった。ぶつぶつと独り言をつぶやく。

「知らない? 本当に知らないのか? ――いやいや、うそだ。そんなはずはない。なんと言っても孫だぞ。少しぐらいは聞いているはずだ」

 さてはもっと痛めつけないとだめなのか、とグッと拳を握る姿が見えた。

 ここまでか!

 ぼくもコウも飛び出す準備をした。花火を構える。シンジはすきを見てかみついてやろうと、ボディーガードの腕をねらっていた。

 その時、聞きなれた、とても懐かしい声が響いた。

「待ってください」

 入り口から現れたのは、ピコだ! 戻ってきたんだ!

「おじょうさまに手をあげるのはわたくしが許しません。それに、あなたが知りたいことは、おじょうさまに聞いてもわからないはずです」

「何! 本当に教えられてなかったのか……まあ、いい。この娘が知らないのならば、お前に聞けばいいだけだ。わかるよな? お前が答えなければ、大事なおじょうさまがどうなるのか」

 すでに笑顔の仮面ははがれていて、つりあがった目はずるがしこいキツネを思わせた。

「ええ。仕方ないでしょう」

「ちょ、ちょっと待て。ピコ、お前が来たんなら、応援もすぐ駆けつけてくるんじゃない

か? それなら、何だかわからんがわざわざ教えてやることもないんじゃないか?」

 コウが言うことももっともだった。しかしピコは、

「残念ながら、応援を期待するのは難しいでしょう。ステーションの係員がどうやら、その男に買収されているようで取り合ってくれないのです。今、知らせに来てくださったご老体が、ムーンウォーカーたちに事情を説明しているのですが、少し時間がかかりそうです」

 ハヤトが壊れたピエロのような不気味な笑みを見せる。

「ほう。ちゃんと役に立ったか」

「さて、それでは今度こそきちんと教えてもらおうか。本物の月がどこにあるかを!」

「わかりました」

 そう言うと、ピコはエレベータの横まで飛んでいくと、なにやら呪文のようなものをつぶやいた。

 ぼくたちはどうすることもできず、ただその様子を見つめる。

 ピコはハヤトの知りたがっていた答えをもっているみたいだった。つまり、今ある月はにせもので、本物がどこかにある。そして、その場所をピコだけが知っている。

 ぼくは、ルナドラゴンを思い出していた。月を見て悲しそうにないていたドラゴン。あれは、もしかして月がにせものだと知っていたからなのかもしれない。そして、冗談だと思いたいけれど、コウがオオカミ男に変身できなくなったのは――。

 ミシミシミシ、という音がした。壁だと思っていた部分が、ピコの呪文に反応して、少しずつもりあがってきている。やがて、パアンと何かがはじけるような音がしてほこりが舞ったかと思うと、次の瞬間にはピコの前に長方形の扉が現れていた。

「おうおうおう。これだ、これだよ。まさに、本物の月へと続く道。俺はこれを探していたんだ!」

「この道は、模造の月を通り抜けて、その先の本物の月へと続いています」

「にせものの裏側に本物を隠したわけだな。なるほどなあ」

「もちろん、さらに遮断魔法で月全体をコーティングしているので、そう簡単には見えませんが」

 たまりかねて、コウが口をはさんだ。

「何故だ? どうして、そんなに本物の月にこだわるんだ? 確かに、本物というのは心惹かれるが、ハヤト、お前のは惹かれるなんて生易しいもんじゃねえよ。わからねえ。本物の月にはいったい何があるってんだ?」

「知りたいか? わたしたちが、常にもとめてやまないものだよ」

 ハヤトがうれしそうにぼくたちを見回す。

「――エネルギー。そう、魔力だよ。月には魔力があふれているんだ」

 不老不死の薬やタイムマシンなんていうものを想像していたぼくは、少しひょうしぬけした。けれど、よくよく考えてみれば、ぼくのいた世界でも、石油を奪い合って争ったり、発電所のことでもめたりするのは、めずらしくないことだった。何より、電気がない生活

なんて、考えられない。テレビも見れないし、電話も使えない。車だって走らないんだ!そう考えると、とてつもない宝物のように思えた。

「地球全体にある量よりも多い魔力。それを手にすることができたら、どんなことでもできる。自由に戦争を起こす事だって、自分の国を作る事だって思いのままだ。もっとも、俺は組織の命令で動いているだけだから、おこぼれにあずかるだけだが……それでも相当なものだろうなあ」

 夢見るように、ハヤトが扉の前にすすむ。

「待て!」

 とコウが声をかける。しかし、追いかけようと走り出した足は、すぐにとまってしまった。

「魔力……魔力か」

 なにやらつぶやいている。

「あれ? どうしたんだ、コウ? 追いかけてこないのか? まあ、追いつかせやしないが」

 余裕の表情のハヤトを見ながら、コウは悔しそうにはぎしりをする。

「もしかしたら……いや、そんなはずは……」

 悩んでいるコウを見て、ぼくは思わず言った。

「大丈夫だよ。オオカミ男になったってコウはコウだ!」

 オオカミ男の話は嘘じゃなかったんだ。おもしろおかしく話していたけれど、コウは冗談に聞こえることも計算していた。その証拠に、今は恐ろしくまじめな顔でうなづいている。

「そうだよな。しかし、ユウが信じてくれていたとは驚きだぜ」

 そう言ってほほえんだ。ハヤトが首をかしげる。

「オオカミ男? もしかして子どもの頃の話か?」

「ああ、そうだ。あれはムーンウォークが始まる前だった。ということは、魔力にあふれた月だったんだ。俺にゃくわしい仕組みなんててんでわからねえけどよ、きっと一時的に月から受ける魔力の高まる日があったんだろうな。それで、俺はオオカミ男になった。ハヤト。あんたなら、覚えてるだろ」

「もちろん、覚えてるさ」

「そうだよなあ。あの時、あんたに止めてもらわなかったら、きっとひどいことになっていた。だからこそ、今回も俺はあんたがこんなことをしたって信じられないんだ。俺を助けてくれたあんたがそれほど悪いやつだとは、どうしても思えねえんだよお」

 コウの告白に、ハヤトは少し驚いたようだった。しかし、やがてその顔は笑顔に変わった。とびきり意地の悪い笑顔だ。

「そうか……。コウ、お前はそんなふうに考えていたのか」

「そうさ、悪いかよ! 俺ん中じゃ、あんたは少々あくどくはなってもヒーローなんだ」

 クックック。

 笑い声が響く。それはやがて爆笑になった。

「はっはっはー。いやー面白い。他人の考えというものは、想像もつかないもんだね」

「何がだ。俺が間違ってたとでも言うのか?」

「いやいや、おおむねはあってるよ」

 そう言うと、扉の前に立ち、とってに手をかけた。なぜか、この扉だけは自動ではないようだった。

「おおむね?」

「ああ、オオカミ男になったのも間違いないし、もう少しで大惨事になるところだったことも覚えている。だがな――」

 首をふってとってを握る手を勢いよく後ろに引いた。

「だがな、コウ。ただ一つだけ、『誰が』が間違っている。オオカミ男になったのは、お前ではなく俺なんだよ」 

 

 スーツがバリバリと内側から破られる。筋肉がもりあがって、からだを覆う毛も長く太くなった。せりだした口から、するどい歯がこぼれて見えた。

 一瞬後にその場に立っていたのは、もはやハヤトではなく、人間であるとさえも言えない生き物だった。認めたくないけれど、それは本で見たオオカミ男にそっくりだ。

 驚いたのはボディーガードたちも同じらしく、すきをついてハルカとシンジがぼくの横まで走ってくる。

「ハルカ! シンジ! 大丈夫だった?」

 でも、二人にはそんな言葉は耳に入らないようだった。

「い、いったい何なのよ、あれ。シンジわかる?」

「知らないよ。ぼくだってはじめて見る」

「やっぱりオオカミ男なのかなあ」

 オオカミ男の異様な姿にショックを受けているぼくたちと違って、コウは自分じゃなくてハヤトが変身したことに驚いているようだった。

「な、何でだよお。俺じゃなくて、何であんたが」

「お前がかってにかん違いしただけだろう?」 

 くぐもった声でハヤトが答えた。変身はしても話すことはできるようだ。口を動かすたびに、歯の間からよだれがしたたりおちる。

「ふむ、一つ教えておこうか。これはオオカミ男に変身したようにみえるが、単に魔力を異常供給されて体格などが変化したにすぎない。まあ、エネルギーがありあまっているわけだから、こんなふうに――」

 ハヤトは、ボディーガードの一人に近づくと、ポンと胸を押した。

 ズウウウン。

 巨体のボディーガードが五メートル近く宙を飛んでいた。

「力も何倍にもなるわけだ。俺はこの体質には早くから気づいていてな、組織の研究所で人工的にこの環境を作ってもらったこともあるんだが、せいぜい毛が少し濃くなる程度だった。やっぱり月からわきでる魔力じゃないと駄目らしい。そういう意味なら、オオカミ男と言えなくもないか」

 クスリと本人は笑ったつもりのようだったけど、もれた声はグフッという動物の鳴き声のような音だった。

「さあて、せっかくこのからだになれたんだ。一連の流れを聞いていた人間には消えてもらうとするかな」

 もう一人のボディーガードもはじき飛ばすと、ぼくたちの方にくるりと向きなおった。

「うーむ、エレメンタル君。本物の月の場所も教えてもらったし、君には感謝しているんだが、それはちょっとよくないかな」

 気がつくと、ピコはしばられていた係員や観光客のひもをほどいて逃げ出せるようにしていた。最後に若い男二人のひもをほどくと、

「すみませんが、この人たちも連れて行ってくれませんか」

 とボディーガードたちをさししめした。自分たちをしばりあげた男を運ぶのは気がすすまないようだったけど、置いておくわけにもいかないと、しぶしぶひきずっていってくれた。

「どうせいつかわかることだから、別にいいんだが……うん。やっぱり君たちだけでも消しておこう。後々、何かとめんどうになりそうだからな」

 そう言って、毛むくじゃらの手をぼくたちの方に向けた。正確に言えば、ぼく、ハルカ、シンジ、そしてピコだ。

 コウは少し離れたところにいて、ハヤトもそちらはあまり気にしていない。コウが大声をあげる。

「おい! ハヤト!」

「何だよ。お前とこいつらは赤の他人だろう? 大丈夫。お前は放っといてやるよ。まきぞえ食わないうちに早く逃げな」

 でも、コウはひかなかった。むしろ、ぼくたちとハヤトの間をさえぎるような位置まで歩いてきて、仁王立ちになった。

「ハヤト。おおむね、合ってるって言ってたよなあ。それじゃ、お前が俺を止めたんじゃなくて、俺がお前を止めたんだろ? 自分のことながら命知らずなことするなあ、とは思うが、逆に言やあ、止めることができたんだ。子どものころできたんなら、今だってできるかもしれんよなあ」

 そう言って、ぼくたちに早く逃げろって合図を送った。かっこうをつけてるわけじゃない。勝てるとも思っていない。コウはぼくたちのために、せいいっぱい強がってるんだ。足はガクガクと震えていても、絶対ここを通さないってふんばっているんだ。

「はあ? 何を言ってるんだ? 冗談はやめて早くそこをどけ。俺は、さっき逃げたやつらが応援を呼ぶ前にこいつらを片付けて、本物の月に行かなきゃならんのだ。で、組織に連絡を入れて、月の魔力を私有化する手続きをふむ仕事がある。忙しいんだ」

「だから、本物本物ってこだわるなよ。にせものもいいもんだぜ。月のにせものとか、オオカミ男のにせものとか、な」

 コウは歯をむき出して見せた。ピコがそっとぼくたちに耳打ちする。

「行きましょう」

「で、でも助けに来てくれたコウを置いていけないわ」

「大丈夫です」

「大丈夫って……」

 こんな状況をどうひっくり返すんだ。でも、ピコはやさしく答えた。

「おじょうさま、手は打ってあるのですよ。申し訳ありませんが、今はわたくしを信じてください」

 ハルカはしばらくピコをじっと見ていたが、やがてうなづいた。そして、

「ピコ、さっきはごめんね。信じてあげなくて」

 と謝った。

「いいのですよ。今、こうしておじょうさまが無事であるならば、わたくしには何の不満もございません」

 ぼくとシンジも顔を見合わせてうなづいた。にらみあうハヤトとコウからじりじりと離れ、開けっ放しになっているドアの方へと近づいた。

 最後にピコがドアの外に出た時、ついにハヤトが片手でコウをなぎ払った。大きなからだがボールみたいにとんでいく。

「ああっ!」

「大丈夫です! 命の心配はありません」

「でも、でも」

 次になぐられたらわからない。首の骨が折れてしまうかもしれないし、折れた骨が心臓なんかに突き刺さってしまうかもしれない。とても見ていられなかった。

「安心してください。――ほら! 来ました!」

 ハヤトがコウを放ってこちらにやってきたのかと思ったけど、違った。

 最初は、何が来たのか、よくわからなかった。

 でも、ハヤトが開けた本物の月へ続くという扉から徐々にその全体像があらわれると、ぼくたちはほぅっとため息をついた。安心のため息でもあったけれど、それ以上にあらわれたものの姿にみとれてでたため息だった。

 白く長い毛に包まれたからだが、天井近くをぐるぐると回っていた。ハヤトが突然のできごとに動けないでいる。コウもむくりとからだを起こしたまま、その光景に目を奪われていた。

「さあ、コウさま。今のうちにこちらへ」

「あ、ああ」

 よろよろとコウがこちらへはってきた。ハヤトが気づいて追いかけてこようとしたが、長いからだがそれをはばんだ。

「な、何だ。こいつは」

「ルナドラゴン……」

 シンジがぼうっとしながら言う。学校で見たのより毛色が少し茶色がかっているし、前足も短いけれど、同じルナドラゴンなのは間違いなかった。

 ルナドラゴンは、ぼくたちとハヤトの間に立ちふさがったまま、こちらをじっと見つめた。

「ほら、おじょうさまあいさつしてあげてください」

「えっ?」

 ルナドラゴンは、まるでずっと昔からの知り合いのように、ハルカに向かって頭を下げた。ひげが地面にふれる。

「ど、どういうこと。もしかして、学校にいたドラゴン? でも、月の方から来てたし……」

「そうです、あの方は月に住んでいますので、おじょうさまがご存知のかたとは違います。しかし、あの方はおじょうさまのことを知っているのです。いえ、正確には王のご友人であられた方です」

「王?」

 ハルカがわけがわからないといった顔をする。

「ええ……くわしい話はもう少し落ち着いた場所に移動してからにいたしましょう。とりあえず、おじょうさまご返礼を」

 頭を下げ続けているドラゴンに対して、ハルカが言われるままにぴょこんと礼をする。ぼくたちもつられて頭を下げた。

「それでは、ステーションまで戻りましょうか」

「しかし、ハヤトは……あいつは放っておくわけにはいかないぜ」

「いえ、大丈夫です。万事、あちらの方でうまくやっていただけるでしょう。少々、大きな事件になってしまいましたが、ご心配にはおよびませんよ」

「くそう! 逃げるなああ! どけええええ!」 

 ハヤトは何とかこちらにこようとしているが、ドラゴンの巨体には、その怪力も通用しない。おしのけようとしているハヤトの方が、いつのまにか部屋のすみの方まで追いつめられて、ついには動けないようにがっちりとしめつけられてしまった。

「他の方たちも、もう少しすればやってきていただけるでしょう」

「やってくる? 月の方から?」

「ええ、もちろんです」

 月からやってくる、というのも驚いたけれど、ピコがドラゴンたちのことをまるで人間のように話しているのが不思議だった。

「さあ、では行きますよ」

 まだ何が何だがわからないでいるぼくたちを、ピコは無理やりにドアの方へと押し出す。「話はステーションに着いてからです」

「ああ、そうだな。早くこんな危険なところ離れなきゃな」 

 ドアが閉まる前に見たドラゴンの顔が、一瞬まるでニコリと笑うおばあさんのように見えたので、ぼくは目をこすった。けれど、もう一度確認する時間もなくドアは閉まり、ぼくはステーションに急ごうとするコウに手をひかれて、しぶしぶ来た道を引き返すために歩き始めた。   

 

    

 

 ステーションへ戻る途中で、ムーンウォーカーたちを引き連れた老人に出会った。老人はぼくたちがハルカを取り戻し、しかもわりあいのんびりと歩いてくるのを見て、ぎょうてんした。

「こりゃあ、どうしたことじゃ? さっき逃げてきた観光客の話じゃ、何でもけむくじゃらの恐ろしい怪物に襲われていたはずだが……」

「まあな、その情報は間違っちゃいないぜ。ただ――」

 コウは何て説明したらよいのかわからない、と肩をすくめた。代わりにシンジが大きな声で答える。

「ドラゴンに助けてもらったんだ!」

「ドラゴン、とな?」

「うん。月からやってきたルナドラゴンが、怪物をつかまえてくれた。あ、でもその月って言うのはみんなが知っている月じゃなくて……」

 知っていることをいっぺんに説明しようとしているシンジを笑いながらおさえて、ピコがこれまであったことを包み隠さずに話した。老人は、あまりにとっぴょうしもない出来事に、言葉を失った。他のムーンウォーカーたちも、どこまで信じていいのか、と首をふっている。

「……なんと。そんなことがあったのか。われわれの目指していた月はにせものだった……」

 ぼくははっとした。人生の大半をかけて、ただ月に行くことだけを目標に歩いてきたのに、その目標がにせものだったなんて。なんて言葉をかけていいかわからなかった。

 でも、しばらくだまっていた老人がやっと口を開いた時に出てきた言葉はぼくの想像もつかないものだった。

「すばらしいっ!」

「へ?」

 何でここで、すばらしいなんて言えるんだ? 今まで歩いてきたことが全て無意味だったとわかったのに。

 シンジとハルカも同じ考えらしく、不思議そうに首をかしげている。ただ、コウだけは老人がそう言うのを予想していたように、にやりと笑った。

「だってそうだろう。わしたちは、まだゴールしなくてよいのだ。まだ、歩くことが出来るのだ!」

 驚いたことに、老人の後ろにいたムーンウォーカーたちの中からも、そうだ、そうだなと言う声が聞こえた。

「わしがなぜ月の一番近くのステーションにたむろっていたのか――それは、怖かったからだ。目指していたものが、目と鼻の先にあるのに、そこに行こうとすると足が止まってしまった。何十年もかけて歩いてきたが、ゴールすることで果たしてわしたちは満足できるのか? もうやりなおしはきかない。もし、満たされなかったらわしたちはどうすればいい?」

 老人は、そこで大きく息を吸った。

「じゃが、これで事情は変わった。道がまだ続いているのなら、こんなところでウロウロしている必要は無い。まだ見ぬ目標に向かって、再び前にすすむことができるのじゃ。ああ、こんな幸福なことがあろうか!」

「そう言っていただけて、わたくしも安心いたしました。お話したかいがあったというものです」

 ピコがうなづく。

 ムーンウォーカーたちの全員が納得したわけじゃなくて、中には首をかしげているものや、まだ信じられない、とつぶやいている人もいた。けれど、ピコがみんなに話したのは正解だったと思う。変にかくしたりすれば、よけいおおさわぎになったはずだ。

 話しながら歩いているうちに、ぼくたちはステーションの入り口まで来ていた。

「はあ、まるでガイドを一日で何十回もやったみたいだぜ」

 どっかりとソファに腰を下ろしたコウが言う。

「ガイド料は一回分だけどね」

 笑うハルカに、チッと舌打ちする。けれど、顔は安心でゆるんでいた。

 シンジが言う。

「ねえ、ピコ。もしよかったら、さっき言ってたこと話してくれないかな」

 妙にえんりょ気味に言うシンジは、最初のころの無口なシンジとも、強気で人の悪口をいいまくるシンジとも違った。すごく自然で、見ていて気持ちがいいぐらいだ。

 ピコがぼくたちを見回した。

「そう……ですね。では、全てをお話しましょうか」

 ハルカにシンジにコウ。そして、ぼくがピコを囲むように座って、一言も聞き漏らすまい、と耳をかたむけた。

「話は、王の伝説の続きになります――」

 そう言って、ピコはふくざつで、少し長い話をゆっくりと語り始めた。

 

 

 

 王はお供と一緒に月へ降り立ちました。しかし、目的を達したと同時に、王たちの身体には異変が起こったのです。それは、古くから「魔力の暴走」と呼ばれるもので、過剰な魔力に人間の身体がたえきれなかったために起こった悲劇でした。

 あるものはからだが変形し、からだが無事なものでも精神が破壊され、もはや人間の意志をもたない生き物になってしまいました。王も例外ではなく、かろうじて意識はたもったもののからだは、大きく長く蛇のように変わり果てた姿になってしまわれました。

 魔力にからだをむしばまれながら、王はおっしゃられました。

「このことを隠せ。人々の夢の火を消すな」と。

 そして、ゆいいつ月の魔力の被害を受けなかったわたくしに、全てをたくされたのです。

 わたくしは後悔しておりました。

 もう少し早く魔力の増幅に気づいていたら。もう少し早く、王を連れ戻していたら。

 しかし、王はわたくしを見ておっしゃったのです。

「もしできるのならば息子を、そして、いつか生まれるかもしれないわたしの孫を見守ってやっていてくれないか。孫の名前は――ハルカなんていいかもしれないな。覚えていたら伝えておいてくれ。わたし自身ももいつか会いに行ければと思うが、おそらくわたしが誰であるか言うことはできないだろう。だから、おまえに頼みたい」

 わたくしは言いました。命をかけて、と。

 そうすると、王はニコリと笑って頷いたのです。そして、いかにもすまなそうにわたくしにおっしゃいました。

「おまえにはめいわくをかけるな」

 それを最後に、王はもう人間の言葉をしゃべることはありませんでした。 

 

 

 

  話し終えたピコは、悲しそうで、それでいてどこかほっとしているように見えた。途中で目から流れ落ちた水が、顔の毛にひっかかって光っていた。

「おじいちゃんが……」

 ハルカは喜びたいけれど、喜び方がわからないといったようにぼくを見つめた。ぼくだって、何て言ったらいいかわからなかった。ハルカのおじいちゃんが生きているだけでもびっくりしたのに、まさかルナドラゴンになってハルカを見守っていたなんて。

 でも、学校で出会ったあのドラゴンの顔は、確かにそのやわらかな表情が、まるで人間みたいに見えていた。ぼくがなぜか自分のおじいちゃんのことを思い出したのも、もしかしたら当然のことだったのかもしれない。あのおだやかな目で、ぼくの笑顔をうれしそうにながめているおじいちゃんのように、いつも学校にある大きな小屋の中からハルカをあたたかく見守っていたんだ。少し、いや、とてもうらやましかった。

「でも、何でもっと早く言ってくれなかったの! わたし、おじいちゃんだってわかってたら、もっと……もっとあのルナドラゴンに……」

 ハルカは、飼育係としてドラゴンの世話していた時のことを思い出していたみたいだった。真っ赤な顔をしている。

「えさ――いいえ、ご飯だってちゃんと持っていってあげたし、掃除だって手伝いたかったわ」

「もはや、あのからだではおじょうさまを抱きあげることも、頭をなでることさえかないません。あの大きなからだは一緒に住むには無理がありますし、一歩間違えば、おじょうさまをふみつぶしてしまうことさえありえるかもしれません。もう、元の生活に戻ることは不可能だったのです」

「でも……」

「そんなからだで、自分がおじょうさまの祖父であるとうちあけたらどうなるでしょう?まだ小さなおじょうさまは、おびえてしまわれるかもしれません。たとえ、おじょうさまが大人になられても、すぐには受け入れられないでしょう。もしかすれば、気持ち悪がられ、遠くにひきはなされる恐れだってあります」

 そんなことしないわ、とハルカはほおをふくらませる。ピコはその様子を見て、ほほえんだ。

「そうですね。おじょうさまはおやさしいですから。ですが――いえ、だからこそおじいさまはうちあけることをためらわれたのでございます。あのルナドラゴンがおじいさまであると知れると、おじょうさまはどうやっても気をつかわれると思います。それこそ、毎日掃除をしたり、ご飯を考えたり、休まる暇がなくなるかもしれません。そんなふうに自分のためにおじょうさまの時間が使われてしまうのが、おじいさまには我慢ならなかったのです」

 しかし、とピコは続ける。

「それでも、おじょうさまを愛していた。できることならば、その目でおじょうさまの成長された姿を見たいと望まれた。ですから、あのような学校の中に建てられた小屋に住むことに決められたのですよ。あまり快適とは言えない生活でしたが、おじいさまは幸福を感じられていたのではないでしょうか。わたくしには、そう思われます」

 ぼくたちに全てを話してしまったことで、ハルカとおじいさんの関係は崩れてしまったはずだ。でも、ピコはもう心配していないようだった。それは、話を聞いているハルカの顔に、驚きよりもずっと大きい喜びが見えたからかもしれない。

「でも、ハルカのおじいさん、これからどうするの? 今までどおり学校で暮らすの?」

 シンジが聞いた。

「そうですね。こうして全てお話したことですし、もはや学校にとどまっている理由はないと思います。さきほど見られたように、月にはおじいさまのお仲間が生活しております。そこで、一緒に暮らされるのが一番よいでしょう」

 それを聞いて、ハルカが少し悲しそうな顔をした。もう会えなくなると思ったのだろう。

「しかしながら、おじょうさまと離れられて生活するのに、王が納得されるかどうかわかりません。ですから――」

 ピコがハルカを見てニコリと笑う。

「時々は遊びに来てあげていただけませんか? もちろん、シンジさまとユウさまもご一緒に」

 大きくうなづくハルカとシンジ。

 でも、ぼくはカチンコチンに固まってしまっていた。

 思い出した。ぼくは、帰らなくちゃいけない。

 ハルカのおじいさんの話を聞いていて、死んでしまったおじいちゃんを思い出した。家で待っているお父さんとお母さんの姿も、頭に浮かんだ。そして、突然消えてしまったぼくのことを説明できずにいる、タケルとシンジの姿も。きっと、タケルはまたシンジのせいにしているんだろうな。

 みんなのことを考えていると、むしょうに帰りたくてたまらなくなった。もちろん、この世界は大好きで、ハルカもコウも、そして少し気に食わないけど、シンジのやつだって大切な仲間だ。

 けれど、ここにはいられない。もう二度と家族と会えないなんて、とてもじゃないけど耐えられない。

「それにしても、ピコが全部話してくれて嬉しいよ」

 シンジがすっきりした顔で言う。

「さっきなんか、ピコだけじゃなくてハルカも隠し事してるんじゃないかって思って、すごい悲しかった。友だちだと思ってたのに、裏切られたってね」

 胸がちくりと痛んだ。

「そんな秘密持ってるわけないでしょ。知らなかっただけよ」

「ごめんごめん。でもさ、これでぼくらの間に秘密は無しだ、だろ?」 

 言うんなら、今だ! そう心の中で誰かが叫んでいる。けれど、口を開いても思ったような言葉が出てこなかった。確かに、ぼくたちは信じられない出来事を経験したけれど、もう一つの世界なんて話を、本当にハルカたちは信じてくれるんだろうか。

 悩んでいるうちに、とうとう地球へ戻る準備が整ってしまった。コウがなごりおしそうに、ぼくたちを見る。

「絶対にまた来てくれよ。今度はただでガイドしてやるから」

「ええ、もちろん。だって、おじいちゃんにだって会いに来ないといけないしね!」

 元気よく答えるハルカを見て、満足そうにうなづいたコウは、転送カプセルをのスイッチを押した。

「じゃあね、コウ。また来るわ」

 来た時とは違って、ハルカが真っ先に乗り込んだ。ピコも一緒だ。

 カプセルのふたが閉まり、低い音と共に転送が開始される。

 シンジがそれ見ながら、コウに話しかけた。

「ねえ、コウ。今更だけど、ごめんね」

「何がだ?」

「いや、ぼく、最初コウに対してひどいこと言ったりしてたでしょ」

 しょんぼりとした様子のシンジはすっかり反省しているようだ。

「ああ、あのことか。いいさ、わかってるよ」

 ヒゲもじゃの顔には似合わないウィンクをすると、シンジは安心したようにカプセルに乗り込んだ。再び、地球に向かって送り出される。

 シンジがいなくなったのをみはからってぼくは聞いた。そう言えば、コウはシンジがひどい言葉をなげかけた時、平然としていた。しかも、今も優しい言葉をかけている。

「ねえ、今わかってるって言ったのは……」

「うん? 何だ、ユウにはわからんのか?」

「全然。想像もつかないよ」

「まあなあ、お前やハルカにゃわからんくて当然かもな。シンジはな、ちょいと悪い言い方だが、格好つけたかったのよ。自分が弱いやつだとは思って欲しくなかったんだな。だから、無理に強がって見せた。似合わん汚い言葉を使ったりしたのも、そのためだろう」

「思って欲しくないって……誰に?」

 コウは決まってるだろ、とぼくを見た。

「ハルカと、そしてユウ……お前にも、な。男の子っていうのは、いつの時代も女の子の前では張り切っちまうもんなのさ。気になっているのに、逆に意地悪したりしてな。いずれ、成長してそんなことはなくなっちまう。シンジだって、もう強がったりはしないだろう。俺に謝れるようになったってのは、本当に強くなれたからできたことだ。ああ、なつかしいなあ。俺も昔はシンジみたいな時があったもんだ」

 小さいコウなんて、それこそ想像もつかなかったけれど、シンジのことについては少しわかったような気がした。ハルカに聞いた犬の話を思い出す。きっと、シンジはあの時から、ハルカのためにずっと強い自分でいようとしたんだと思う。ちょっと不器用だけど、好きな女の子のことをずっと考えてたんだ。

 ハルカのことをちょっとうらやましく思っている自分にちょっとびっくりする。いつもは、男の子のような格好をして、遊ぶ友達だってタケルやシンジのような男の子だった。けれどハルカを見ていると、女の子らしくするのも悪くないかなって思う。シンジだって、一応女の子だとは思ってくれてるみたいだし、少し考えてみよう。

 ぼくの番が来た。ゆっくりとカプセルに入る。

「お別れだな」

 コウが言う。もし無事に自分の世界に帰れたとしたら、本当にこれでお別れになるかもしれない。コウに見えないように、こぼれた涙をぬぐった。気づかれないように、わざと明るく言う。

「うん。そうそう、前から思ってたんだけど、そのヒゲそった方がいいよ。くまみたいで、きっと女の子にもてないから」

「大きなおせわだ。これは、俺のトレードマークなんだぜ。そんなこというなら、ユウだってもう少し女の子らしい服でも着ろよ。その服が好きだってんならせめて、ハルカみたいに自分のことは『わたし』って言うとかよう」

「そっちこそ、よけいなお世話だよ!」

 さっき考えていたことを見透かされた気がして、ぼくは顔から火が出そうだった。

「まあ、なんにせよ次来るまで元気でな。……ヒゲのことも、まあ考えとくからさ」

「コウも、風邪なんか引きそうもないけど、元気でね」

 かたい握手を交わした。カプセルのふたが閉じる。

 転送される間、ぼくはまた目を開けていた。にせものの月に続く道は、にせものとわかっていてもすばらしく幻想的だった。にせもののオオカミ男も、強く、優しかった。

 こうこうと光る道を見ながらぼくは、「わたし」って言うのも悪くないかな、と考えていた。

 

 

 

 地球の係員は何事も無いように迎えてくれた。実際、ピコに聞いたら、何もなかったことになっているらしい。ステーションでぼくたちが帰る準備をしている間、ピコはムーンウォーカーたちに話をつけて、しばらくの間だけ黙っていてもらえることになったそうだ。「あのオオカミ男の組織は気になりますが……こちらも警戒していますし、すぐに事件が起こることは無いでしょう」

 とぼくたちにそっと話してくれた。

 シンジのお父さんは、すで準備してくれていて、ハルカやシンジが眠っている間に車はシンジの家までもうすぐ、というところまで来た。

「ユウさまは眠らないのですか?」

「うん」

 窓の外にながれる景色をながめながら、ぼくは言う。すごい疲れているはずなのに、これからのことを考えると、全然眠ることができなかった。

「ところで、ユウ君の家はどこなのかな。よかったら送ってあげるよ」

 おじさんが親切に言ってくれたが、ぼくの家はこの世界にはない。しばらく考えた後、ぼくは正直に行き先を言った。

「学校へお願いできますか」

「学校? 今日は休みだから閉まっているけど、いいのかい?」

 その時、学校という言葉に反応したハルカがぴょこんと起き上がった。

「はいはーい。わたしも学校におろして下さい!」

 ぼくの方を見てニコリと笑う。おじいさんに会いに行くつもりなのだ。

「ふうん。飼育当番でもあるのかな。じゃあ、学校へ向かうよ」

 しばらく走ると、学校の門の前に着いた。ガクンと車が止まったので、勢いでシンジも目を覚ます。ハルカの合図に気づいて言った。

「ぼくも、学校に寄ってから帰るよ」

「そうか。まあ、夕食までには帰って来いよ」

 車が遠くに去っていくのを見とどけて、ぼくたちはルナドラゴン――ハルカのおじいさんがいる場所へ向かった。

 ぼくたちが来たのに気づいて、遠ぼえのような声が響いた。喜んでいるんだ、とピコが言った。

 今度は窓からのぞくのではなく、直接小屋の中に入った。先生から鍵を借りてきたのだ。最初はしぶっていたが、ピコがたくみな説得をして何とか借りることができた。

 おじいさんはハルカのことをわかっているらしかったが、人間のようにうまく言葉を発音することができなかった。そこで、ピコが通訳に入る。ハルカは夢中でおじいさんと話していた。シンジは横で、ドラゴンが人間が話すという不思議な状況を興味深げにながめていた。

 そしてぼくは――というと、後ろの方にいて、途中からずっとうつむいていた。

 とうとう、来てしまった。ハルカたちに何も説明しないまま学校へ戻ってきてしまったのだ。

 言わなくちゃ。ぼくが鏡の中からでてきたこと。違う世界から来たということ。たとえ、信じてもらえなくても。

「じゃ、おじいちゃんまた来るからね。あっ、今度は月で会うことになるのかな?」

 手を振りながら、シンジとハルカがぼくの方へやってくる。ピコも礼をして戻ってきた。「今日はもう、帰りましょう。わたし疲れちゃった!」

「うん。ぼくもくたくた。今なら学校でも寝れそうだよ」

「そうですね。では鍵を返して、そろそろ――」

 今しかない。言うんだ!

「待って!」

 ぼくはみんなを呼び止めた。

 芝生を通り過ぎて、一度学校へ入ろうとしていたシンジが不思議そうにぼくを見た。

「どうしたのさ」

「……シンジ。さっき隠し事はなしって言ってたよね。……でも、ぼくみんなに会ってから今まで、ずっと隠してきたことがあるんだ」

 ぼくは、鏡のことも、元の世界のことも、全てを一気にしゃべった。

 

「信じられない」

 ハルカが言った。やっぱりそうだ。せっかく仲のよい友だちになれたのに、これでぶちこわしになるんだ。

 でも、ハルカが続けていったのはぼくの予想と違っていた。

「昨日までなら間違いなくそう言ってたわ。でも、今日はそれが本当のことだって思えるの。なぜかしらね」

 それと、と続けてハルカは笑う。

「ユウ、最初タケルが、タケルがって言ってたでしょ。わたし、そんな人間は知らないけど、人間じゃなかったら――」

 シンジの方を見る。シンジが何かに気づいたような顔をした。

「あっタケルって、あの犬だ!」

「そう。わたしとシンジをおそった犬の名前」

 シンジが複雑な顔をする。

「あの犬と同じ名前の人間かあ。なんかいい友だちにはなれそうにないな」

「まあ、そうかもしれない」

 頭の中でタケルの顔をした犬がほえてる姿が浮かんで、思わずふきだしてしまった。

「もちろん、ユウの知っているタケルと犬のタケルは全然関係ないかもしれないけど、それでもわたしユウのこと信じるわ」 

 ハルカがシンジは、と言うと、

「そりゃあ、すごい体験いっぱいしたからね。ぼくも信じるよ、それ」

 ピコもしばらくうなっていたが、やがて一つだけ質問をしてきた。

「ユウさま、こちらから戻れなかった、と言っていましたね。本当ですか?」

 ぼくたちは、月鏡のある階段までやってきた。

 恐る恐る手を伸ばしてみるが、鏡はまるで何事もないようにぼくたちを映しているだけだった。ほっと安心した反面、もしかしたら本当に帰れないのではないだろうか、という不安が頭をよぎった。

「本当ですね。反応はない。わたくしたちには当たり前に思えますが」

「時間が決まっていたからね。夜の二時だったかな? その時にならないと吸い込まないんだと思う」

「時間……本当にそうでしょうか?」

 ピコはハルカの肩に止まったまま、しばらく考えて言った。

「月鏡とおっしゃっていましたよね」

「うん、ぼくたちの間ではそう呼ばれていた」

 それを聞くと、ピコはふむとうなづいて、からだのなかから何かを取り出した。

 ぼんやりと光るそれをシンジが触ろうとすると、ピコがそれを止めた。

「これはユウさまのためのものです」

「これは何?」

 ぼんやりと光るそのかけらは、どこかで見たような気もする。

「月のかけらです」

「月!」

「ええ、ユウさまの話を聞いてみると、そちらの世界とこちらの世界は異なるところが数多くあります。中でも、魔力が存在しない、というのは大きいところです」

「ただ――本当に存在しないのでしょうか?」

「どういうこと?」

 ハルカが聞いた。

「わたくしたちの世界でも魔力の影響は人によりさまざまです。オオカミ男のように変身することもあれば、ドラゴンのような姿になることもある。そこで、考えたのです。そちらの世界は魔力がないのではなく、それを受け取れないだけではないか、と」

 そう言って、ピコは月のかけらを差し出してきた。だまってそれを受け取る。それを見て、ピコがうなづいた。

「……やはり。これは、魔力を源として活動するわたくしの食料とも呼べるものですが、こちらの世界の人間が持つと、ちょっとした変化があります」

「ドラゴンになるとか?」

 シンジがきらきらした目で見つめる。そうだ、と言ったら試してみるつもりなんだろうか。

「いえ、そこまでの力はございません。ただ、少し毛が伸びたり、つめが長くなったり、小さな変化は起こるはずです」

「でも、ぼく特に変わってないよ」

「ですから、これで魔力を受け取れない、ということが証明されたわけです」

「えー、それだけ?」

「まあ、お待ち下さい。魔力を受け取れないだけで、魔力自体は存在するとしたら――ユウさま、その鏡は『月鏡』と呼ばれているのですね?」

「うん……あっ、もしかして!」

 こっちの世界とぼくの世界で違うこと。それは、月がにせものか、ほんものかということだ!

「たぶん、ユウさまの考えている通りです。鏡を通り抜ける重要な要素、それは魔力だったのです。こちらの世界から、鏡を通り抜けられないのも当然のことです。特殊な魔力を放出している本物の月は、わたくしたちが隠してしまっていたのですから」

「さあ、もう一度手を伸ばしてみてください」

 ぼくは言われるままに、月のかけらを握った手で鏡を叩いた――つもりだった。次の瞬間には、手はひじのあたりまで、鏡に吸い込まれていた。

「本当だ!」

 ハルカもシンジも目を丸くしている。ぼくも実際、手が吸い込まれている様子を見ると、不思議な気持ちになった。

「これで、帰れるんだ!」

「ええ、帰ることはできます」

 ピコの言い方がどこか変だった。

「え……だって、この月のかけらがあればまた戻ってこれるんでしょ。また、二時ぐらいに学校に忍び込んでもいいし」

「それは、わかりません。まず、月のかけらの魔力はやがて消えてしまいます。そもそも、そちらの世界でこちらの世界のものが、同じようなはたらきをするかどうかもわからないのです」

 ハルカとシンジの顔がくもる。

「それと、なぜユウさまだけがこちらの世界に来ることができたのか。わたくしはもう数十年この学校の近くに住んでいますが、ユウさま以外で違う世界からやってこられた人を見たことがありません」

「それは、そっと帰ったのかも」

「いいですか、こちらの月はにせものです。そして、この月のかけらを手に入れられるのはごく一部だけなのですよ。もしかしたら、鏡に触れる人が少なかったからかもしれませんが――理論的には月が出ている間なら、いつ触ってもこちらの世界に来られるはずなのです。はたして、この数十年で夜、鏡に触った人は一人もいないのでしょうか?」

「じゃあ、ユウは特別だったの?」

「いいえ、おじょうさま。特別ではなく、偶然だったのではないか、とわたくしは思います。たまたま、月の魔力の条件がそろったために、ユウさまはこちらの世界に飛ばされてきたのではないでしょうか」

 ぼくたちは、ごくりと息を飲んだ。予想はしていたけれど、改めて言われると辛かった。けれど、ピコはとどめをさすかのように続けて言う。

「つまり――これでお別れとなる可能性が非常に高いと思われます」

 

 お別れ、という言葉を聞いてコウの顔が浮かんだ。やっぱり、コウとももう会えないんだ。

「ちょっと待ってよ。そんなのいやだ!」

 驚いたことに最初にそう言ったのはシンジだった。

「せっかく友だちになれたんじゃないか! もう会えないなんてひどいよ!」

「そうよ、ユウ。帰ることなんてないじゃない。だって、ユウお父さんやお母さんのこと好きじゃないんでしょ。帰りたくないって言ってたじゃない」

「うん、そうだ。ぼくの家に住んだらいいよ!」

「そうよ! ユウ。それがいいわ」

 口々にぼくを引き止めてくれるハルカとシンジ。本当にここに住みたい、一瞬そう思った。

「ごめんね。ぼくは、やっぱり帰らなくちゃならない。親のこと、あの時はそういうふうに言うしかなかったんだけど、本当は厳しくてやさしいお父さんとお母さんなんだ。きっと、ぼくが帰らないのをすごい心配していると思う」

「じゃあ、せめてあと何日か――」

 そう言いかけたハルカの前に肩から降りたピコがすっと浮かんだ。

「何日も家にいなかったら、家族の方はどのくらい心配されるでしょうか? もし、おじょうさまが一週間行方不明になったら、お母さまはどうなされると思いますか?」

 ハルカはしばらく考えてから、ゆっくりと首をふった。

「心配で死んじゃうかもしれない。この前の家出だって、一日なのにすごい怒られて……、それで、泣いてた」

「しょうがない、のかな」

 シンジががっくりと肩を落として言う。目に涙が浮かんでいる。ぼくも、シンジのことが嫌いだったはずなのに、目の前がぼやけて見えた。

「ユウ! わたしのこと忘れないでね!」

 突然、ハルカが叫んだ。シンジも負けずに声を響かせる。

「ぼくのことも! たとえ、違う世界にいてもずっと友だちだ!」

「うん、絶対忘れない!」

 ハルカが手を差し出した。その上にシンジの手がのる。ピコも短い手をせいいっぱい伸ばして重ねた。ぼくは両手で、三つの手をぎゅっと握った。

「このままいたら帰れなくなっちゃうから、そろそろ行くね」

 戻した手で、ぼやける目をふいてぼくは言った。

「お気をつけて」

 ピコが頭を下げる。

 ぐっと唇をかみしめて、みんなを見ながら後ろ向きに鏡の中に入る。

 ハルカとシンジがだまって空を指差した。

 わかってる。みんなで月に行ったことを、ぼくは決して忘れない。

 やがて、目の目まですべて白い闇におおわれて、ぼくの意識はぷつっととぎれた。  

  

 

 

  一週間がすぎた。学校では相変わらずタケルがシンジをいじめ、色々とむちゃなことを言っている。

 元の世界に戻ってきた時、ちょうど一日がすぎていた。時間が止まっていて、というような都合のいい展開はなくて、帰ったぼくはしっかりとお父さんとお母さんに怒られた。タケルやシンジもかなりこっぴどくしかられたらしい。それでも、怒った後にお母さんが泣きながら「本当に無事でよかった」と言ったときには、やっぱり帰って来てよかったと心から思った。

 月のかけらは、今でもぼくのポケットに入っている。ピコの言ったように、こっちの世界では、魔力を出したりしないようだった。見た目もただの石だ。けれど、これはおじいちゃんにもらった月の模型と同じようにぼくの最高の宝物だ。もしかしたらこっちの世界にはない珍しいものかもしれないけど、誰かにしゃべるつもりもないし、お金をいくら出されても絶対に売らない。

 実は、あれから夜に何度か鏡に触ったことがある。もちろん、先生がいる時間だから、そんなに遅い時間じゃない。けれど、鏡はただの鏡で、もう一度ぼくを吸い込んだりすることはなかった。

「おいっシンジ。次のテスト見せろよな」

「え、えー」

「いやだって言うのかよ」

「そうじゃないけど……」

 やれやれ、しょうがない。

「シンジが困ってるでしょ。やめなよ」

「あーユウ。また、お前シンジをかばうのか? もしかして、お前シンジのことが好きなのかよ?」

「別にわたしはそんなつもりで言っているわけじゃないけどさあ。タケルとシンジどっちか選べって言われたら、シンジの方がやさしそうでいいかもね」

「うえ。何だよ、お前。学校に忍び込んだ日から何か変わったよ。それに――『わたし』って……いきなり気持ち悪い。前みたいに『ぼく』って言ってた方があってるぜ」

 そう言いながらも、シンジのことはあきらめたみたいで、自分の席へ戻っていった。シンジがぼうっとぼくの方を見ている。この調子じゃ、あっちの世界のシンジみたいになるまで、しばらくかかりそうだ。

 クラスの女の子が話しかけてきた。最近、タケルたちとばかりじゃなくて、女の子とも遊ぶようになってきた。前までは、絶対話があうはずないと思い込んでいたけど、実際おしゃべりに加わったら、思った以上に楽しかった。

「ねえ、ユウ。そう言えば、ユウの名前って漢字でどう書くの? 携帯に登録したいんだけど、わからないから」

 携帯電話を差し出してきた。ユウ、というのを変換してみるとずらっと漢字が並ぶ。その中から選ぶのだ。ぼくは、一つを選んで返した。

「へえー。これなんだったったかなあ? 悠々自適のゆう、かな」

「そうだけど、難しい言葉知ってるね」

「うん、わたし本読むの好きなんだ。……あ、そう言えばこの漢字、他にも読み方あるよねー」

 そうだったかな。

 あまり、自分の名前のことなんて深く考えることがなかったから、そんなこと思いつきもしなかった。

「……これね、ハルカとも読むのよ。ユウっていう名前もいいけど、ハルカっていうのもかわいいよね」

 そうか、そういうことだったのか。

 笑いがこみあげてきた。

「どうしたの?」

「ううん、何でもない。ただの思い出し笑いよ」

 二つの世界は、どこか違っていて、どこか似ていた。シンジがいたけど性格が違っていたり、月がにせものだったり。そして極めつけは、違う世界のぼくは、ちょっと女の子らしかったのだ。ハルカとあんなにすぐに仲良くなれたりしたのも、ピコがどこかであったような気がすると言っていたのも当然かもしれない。

 だって、ハルカはぼくだったんだから。

 ポケットの中の月のかけらをぎゅっとにぎる。

 今度、おじいちゃんのお墓参りに行こう。月のかけらを見せて、ぼくの体験したちょっと不思議な物語を話すのだ。電車で行こうかな――ううん、ちょっと遠いけど歩いていくことにしよう。

 急がなくても、ゆっくり歩いていけば着くさ。なんてったって、少しずつ歩いていけば、月にだって行けるんだから!