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「……明日だね」

「うん」

「今更だけど、何か心残りなこととかある?」

「ううん、別に」

 四方に監視カメラを設置された部屋の中で、彼女の魂はすでに抜け落ちているように見えた。あまりにも生気のないその姿に、ドアの側で待機している看守も逃亡の可能性はないと踏んだのか、視線をそらしている。

 強化ガラスを一枚挟んだ向こうには、死の空間ができあがっていた。

 無理もない、とは思う。

 人間にとって死と消滅は同義だ。大抵の人間は自分をごまかし、深く考えないようにすることで死の恐怖から逃げているけれど、今回はもう、逃げることは出来ない。その存在は今、明日という具体的な時間を伴って彼女を追いつめているのだ。

 そんな彼女にかける言葉を、僕は持っていない。

 いや、そもそも僕がここにいることが、彼女に大きな苦痛を与えているはずなのだ。

「ねえ、死ぬのって痛いのかな?」

 夢を見ているように、彼女が呟く。

「さあ、僕にはわからないよ。薬を使うって言ってたから……きっと眠るように逝けると思う。でも、死ぬってこと自体がとても痛いことなのかもしれない。もしかしたら、死んだ後もずっと痛いのかもしれない。何も、確実なことなんか言えないよ」

 ああ、また僕の中にいる奴が余計なことを口走る。いつものように、彼女の怯える姿を想像して心の中でほくそ笑んでいる。

でも、今日の彼女は笑った。全てをあきらめたのか、それともただの強がりなのかはわからない。ただ笑って、そして静かに話し始めた。

「昔ね、そう確か幼稚園ぐらいの頃だったかな? 布団に入ってさあ寝ましょうっていう時に、ふと思いついちゃったことがあるの。このまま寝て、もし明日が無かったらどうしようって」

「明日があるなんてその時までは当たり前だと思ってたから、どうして自分がそんな事考えたのかわからなかった。何変なこと考えてるんだろうって、早く寝ようって自分に言い聞かせた」

「でも、駄目だったんだよね。もう、知ってしまったから、気づいちゃったから。明日が確実にあるかどうかなんて、誰にもわからない。明日で突然、生きている私がプツンって途切れちゃうかもしれないんだって」

 気が付くと、彼女は震えていた。巨大な物から身を守るように自分をかき抱きながら、カタカタと震えていた。

「怖くて怖くて、涙がこぼれた。最初はじんわりとした不安だったのに、考えれば考えるほど、どうしようもなく怖くなって……大声で泣いちゃった。お母さんたち、驚いたろうなあ。娘が突然、しかも今までにないほど大声で泣き始めるんだから。怪我したんじゃないか、とか気が気じゃなかっただろうね」

 震えながら、薄く笑う。

「……気づいたら母親に抱かれて、大丈夫だから大丈夫だからって呪文みたいに繰り返される言葉を聞いてた。大丈夫。今聞いたら、何て無責任なって怒り出しそうな言葉だけど、その時は不思議とそれで安心できたの。やっぱり子供だったからかな。そのうちに、母親の腕の中で眠っちゃって、朝起きたときにはあんなに泣いたことも忘れて、すっかり元気になってた」

「本当、馬鹿だよね。死が消えてしまった訳じゃないのに」

いつになく饒舌に喋る彼女。それで不安が紛れるのなら、いくらでも話し続けたらいい。

 今の僕には、ただ聞いてあげる事しかできないから。

「そういえば、さ。走馬灯ってあるじゃない? 死ぬ前に印象深い思い出がバアッて頭の中を駆け巡る奴。今の私はそういう状態なのかもしれない。まだ死ぬのには時間があるけれど、そのぶんゆっくりと浮かんでくる。貴方と出会った日、一睡もできなかったこととか、すごい無理して食費までつぎ込んで指輪買ってくれたこととか、まるで昨日のように思い出せるよ」

 無理をして楽しい事だけを思い出している。あまりに酷く、悲しい光景だった。

「私が死んだら、貴方は泣いて……あ、ごめんね。すごい無理なこと言っちゃって。でも、今の貴方を見ていたら、どうしても聞いてみたくなったの」

「泣くよ。当たり前じゃないか、夫婦なんだから」

「ありがとう。嘘でも嬉しい、かな。私に明日が無くても、悲しんで泣いて、明日も眠れないような人がいるんだったら、ちょっとはマシだよね」

 それは少し皮肉が混じった言葉のように思えた。僕が明日を悲しんでいない事を見透かしているような、そんな雰囲気さえ感じ取れた。 

 

「そろそろ面会時間は終わりです。何か言い残したことがあれば、今のうちに伝えておいてください」

 さっきまでずっとドアにへばりついてぴくりとも動かなかった看守が言った。

「ええ、わかりました」

「じゃあ、そろそろ帰るね」

 そう言うと、彼女は少しあわてたように見えた。

「あ、ちょっと待って。私、最後に……最後に一つだけ聞いておきたい事があるんだけど、いい?」

「うん、でもその前に僕も聞いていいかな?」

彼女の動きが止まった。もしかしたら、僕が何を聞こうとしているのか察したのかもしれない。視線がピタリと定まる。

 少し迷った。このまま帰れば、死を前にした彼女の心を悪戯にかき立てなくてすむ。

「うん……いいよ」

 小さく息を吸い込む。これは、明日のために避けられない問いだ。自分にそう言い聞か

せて。 

「……今でも、僕を恨んでいるかい?」

 彼女は不思議そうに僕を見つめる。予想していたのとは、少し違っていたようだ。

「それは、貴方が言うべき質問じゃないでしょ。でも……いいよ。答える」

「……うん……恨んでる、と思う。ごめんね、曖昧で。でも、それが正直な気持ちだから。さっきは、貴方との出会ったのが素晴らしい事のように言ったけれど、その後の生活もそうだったとは、口が裂けても言えない。ご飯が遅いと言っては殴られて、食べた後も不味いと蹴られて、毎日がそんな感じで幸せだったって言う人間なんかいないと思う」

 『僕』が彼女にした酷い行いは、今でも僕の記憶に生々しく残っている。

「本当に辛かった。何よりも、好きな相手にそういう仕打ちを受けるのが辛かったよ。そうじゃなかったら……、そうじゃなかったら私は……貴方を……」

 語尾は聞き取れなかった。

 彼女はしばらく下を向いていたが、面会時間の終了が迫っているのを思い出したのか、すっと顔を上げてガラスに近づいた。瞬間、息でガラスが白く曇る。

 しばらく彼女はそのままの格好で止まっていた。

「いいよ。何か聞きたいことがあったんだろ?」

 話しやすくするためにかけた言葉だったのに、彼女の顔はくしゃりと歪んだ。

「どうして……どうしてそうな風にしていられるの? そう、私の質問は貴方と全く同じ。貴方は、私の事を恨んでいるの? 恨んでいないといけないはずじゃないの?」

 

「だって、私は……私は貴方を殺したのよ!」

 

 悲痛な叫びが辺りに響いた。詳しい事情を知らない看守が目を丸くしている。今までの流れを聞いていたのなら、当然の反応だろう。彼女の言葉が正しければ、今ここに座っているのは幽霊ということになってしまう。

でも、その考えもあながち間違いとは言えない。

 

 ここにいるのは、僕と『僕』の幽霊だから。

「……ごめんね。ちょっと興奮しすぎたみたい。そう言えば、貴方は私に殺された記憶までは持っていなかったんだもんね」 

「うん、クローンに記憶がバックアップされるのは1日の終わりだからね。夕方には殺されていたから、その日何があったかは見ていないんだ」

 嘘だった。記憶のバックアップの周期には種類があって、『僕』はリアルタイムの更新を選んでいた。もし、何かの不注意で死んでしまったときには、同じ失敗を繰り返さないようにと。

 だから、殺される瞬間に『僕』が感じた恐怖や、彼女が血まみれで仁王立ちしている情景まで鮮明に覚えている。ただ、彼女に知られるわけにはいかなかった、明日のためにも。

「たぶん、貴方は何事もなかったかのように別のレールを進んでいくんでしょうね。それこそ、別の人間のように」 

「ああ、そうかもしれないね。そうだったら……いいね」

 答えた僕に彼女は寂しそうに笑いかけ、そしてすぅっと元の生気のない顔に戻った。

 

 

「では、これで面会時間終了となりますね」

キリのいいところと判断した看守が、そう言った。腕時計を見ると、もう少しで終了です、と言われてからかなりの時間が経過していた。死刑を宣告された囚人に対する同情もあるのだろうが、それ以上にその看守自身の人の良さを感じさせた。

「すみません、長々と話をしてしまって」

「いえいえ、いいんですよ。これから死にゆく人たちに対して、私が出来ることはこれぐらいですから」

「ありがとうございます。では、今日はこれで失礼します」

「……明日は、2番目の執行となりますので午後3時には準備が始まります。もし……」

「ええ。聞いています。しかし、2人ですか……」

「いいえ、3人です。たぶん、全部が終わる頃には夜になるでしょうね。……最後は、13歳の子供なんですよ。本当に、やりきれません」

 看守は疲れたようにため息をついた。死刑の拡大適用が始まったのはいつの頃だったか記憶にないが、正直そこまで酷いことになっているとは思わなかった。単純計算で、1年で1000人近くが法の名の下で殺されている事になる。人口が爆発的に増えたとは言え、とても想像できない数字だった。 

 ただ……明日それだけ多くの死刑が執行されるというのは、不謹慎だが、僕にとって都合が良くもあった。

 

「お気をつけて」

 看守の言葉を背に、僕は出口に向けて歩き出した。念のため、事前に手に入れた建造図と変わっているところがないかもチェックする。玄関までたどり着いたときには、かなり精神力を消耗していた。

 車のエンジンをかけながら、ふと、彼女の最後の言葉を思い出す。

「別の人間、か……」

 大学時代、『僕』は友人と議論をしたことがあった。題材は『人を形作るのは記憶か否か』。学生らしい、青臭い哲学論議は『僕』が否定派を言いくるめて決着が付いたはずだった。『僕』はこの時の意見を最後まで信じていた。だからこそ、自分のバックアップとしてクローンを作ったのだ。全く同じ記憶を持ったこの僕を。

 けれども、今なら簡単にその主張を覆せる。そう自信を持って言えるほどに、同じ記憶を持っている僕と『僕』は別の人間だった。

僕は『僕』の性格を嫌悪し、『僕』が彼女にした行為に対して怒り、そして、僕として新しい人間として彼女を愛した。

 今でも、時々無意識に『僕』の行動を反復したり、彼女を悲しませるような言動を取ってしまうことがあるけれど、そのような『僕』の幽霊は時間と共に消え去っていくだろう。

僕は『僕』とは違う。

 僕は彼女をきっと幸せにしてみせる。

 そのためにも、明日の計画は失敗できなかった。死刑囚を囲う鉄の檻。それは恐ろしく頑丈で、とても隙間は無いように思えるが……大丈夫。緻密な計画は針のように細い。それに、三人もの死刑を執行するのならば、その準備、看守たちの精神状態は必ず計画に有利に働いてくれるはずだった。

 彼女を連れだしたら、遠くへ逃げよう。手配は出来ている。彼女も、最初は大いにとまどうだろうが、きっと説得してみせる。そして、別の人間だと納得させた上で、改めて告白するのだ。もしかしたら断られるかもしれないし、愛想を尽かされてしまうかもしれない。それは、仕方がない。でも、せめて『僕』が奪った明日を返しておきたかった。

 そう、彼女に明日を返す事は、『僕』と同じ記憶を持った僕の償いであり、僕という新たに生まれた人間の願い。だから、もし失敗しそうになったならば、残念だけれども、彼女だけでも逃がさなければならない。たとえ、それで命を落とすことになったとしても。 

 彼女が怯えた死は生まれたばかりの僕にも、もちろん、とても恐ろしいものとしてのし掛かる。恐ろしいという思いさえ消滅してしまうのが、さらに怖い。僕は、昔の彼女のようにしばらくはただ怯えるだけだった。

 でも、今では少しの間だけなら、彼女のために死を忘れることができる。死は巨大で、正面から立ち向かってもとてもかなわないけれど、ほんの小さな抵抗だったらできる。僕は神は信じてないけれど、もし人間を作った奴がいたのならその事だけは感謝していいと思った。

 

 考え事をしているうちに、車は家の前まで来ていた。たぶん、この家で食べるのは最後だからと、好物のカレーライスを昨日作っておいた。しっかりと栄養をとらなければならない。そして、食べ終わったなら、今日は無理矢理にでもゆっくりと休むのだ。

 成功するかもしれない、失敗するかもしれない。

 

 ただ、どちらにしても、明日はきっと眠れないから。