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1■ COMBO

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2■ 序章

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 2-1◆ 健吾

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  明石健吾は驚愕していた。

  

  目の前に自分の下半身が転がっている。そのあり得ない光景は、恐怖よりもまず大きな驚きを健吾にもたらしていた。

  下半身がそこにあるのならば、上半身はもっと異様な状態になっていることが容易に想像できた。健吾が子供の頃に聞いた話でテケテケという怪談がある。上半身だけしかなくて、手だけで追いかけてくる

 怪物。今の健吾は見た目だけで言えば、限りなくそれに近いはずだった。

  

  けれど、当然ながら怪物のように自由に動くことはかなわない。手も足も、脳からの命令を拒否し続けている。自分の身体を確認しようにも動くのは眼球のみで、黒く染まっていく視界から、少しずつその機能さえ失われつつあるのが感じられた。

  

  俺に何が起きたんだ? 

  疑問を投げかける相手を探したが、視界の中には誰も見当たらない。もしかしたら、この惨状を遠巻きに見守っているのかもしれない。近寄りすぎると被害者との接点が出来てしまうから、第三者でいられる位置でショーを楽しむ。野次馬なんてそんなものだ。

  

  あまりに異質な光景の中、健吾の驚きは急速に冷めていった。それと同時に怒りがわいてくる。もちろん、自分をこんなふうにした原因に対してだ。

  

  人間か?

  あるいは単なる事故か?

  

  健吾の仕事は、表向きは新進のベンチャー企業という事になっているが、裏ではあまり人に言えないようなこともやってきていた。会社のために身を粉にして働いてはきたものの、被害を被った人間にとって、そんなことは関係ないことだ。誰かに恨まれていてもおかしくはない。最近、胃がキリキリと痛むことも多かった。自分にはこの仕事はむいていないんじゃないか――そう思った矢先の出来事。

 

  今日はただ待ち合わせをしていただけだった。取引相手がなかなか来ないため健吾はイラついていたが、投げ出すこともなく、同じ場所でじっと待ち続けていた。その報酬が胴体切断だとしたら、まったくやりきれない。

  

  死ぬのはそれほど恐ろしくなかった。ただ、答えが知りたい。それなら仕方ないと納得して死にたい。

  

  闇に覆われつつある視界の隅に、薄汚れた板のようなものが写った。

  あれは何だろう?

  ぼやけているが、微かに赤く染まっている気がする。滴り落ちるのは……血? よく見ると、血にまみれた板は何処かの病院の看板のようだった。高いところから落ちたらしく、分厚い金属が曲がっている。

  あれは……俺の血、か? ――そうか。あの板に切断されて、俺は死ぬわけか。誰の恨みでもない、ただの事故なんだ。

  健吾は何となく解放された気分になって、そのまま深く沈んでいく意識に身を任せた。

  

  ……偶然の事故なら、仕方ないよな……。

 

  

  

  

  

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 2-2◆ 康代

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  酒井康代は呆けていた。

  

  自分の死の瞬間は周りの景色がスローモーションに見えるという。いわゆる走馬灯というやつだ。康代も昔どこかでその話を聞いて、まあそうかもしれないな、という程度に考えていた。そして同時に、できることならば、自分には訪れてくれないことを願っていた。死の瞬間が引き伸ばされるなんて、最低だった。

  

  けれど、今となってはその考えが間違っていると言うことが出来る。いや、正確には『不十分』と言うべきか。

  自分が絶対安全な場所に立っていたとしても、世界はスローモーションで動くことがある。それに、必ずしも不快なものでもない。

  今の康代がまさにそれを感じていた。

  

  階段の手すりに身を持たせかけながら、落ちていく物体を眺める。

  手を伸ばせば届くかも。

  一歩踏み出せば、捕まえられるんじゃない?

  そんな声が内から聞こえる反面、まだ空中に止まっている物体に何となく苛立ちを感じていた。そんなに頑張らなくてもいいのに、そう心の中で呟いた。

  

  数十年前に建てられた家には、康代を含めて今4人の住人がいる。夫は今ゴルフにでかけている。いつも肝心な時にいない、役立たずだ。俊樹は小学校の友だちの家に行っている。これは、幸運だった。後で電話をかけて、泊まらせてもらえるようにしよう。そして、義母は――

  

  ああ、そうだ。今落ちているんだった。

  

  早く落ちきってしまわないものか。義母は階段の一番上で枯葉を踏んで足を滑らせた。かなりの高さがある。この角度だと、上手い具合に首の骨を折る確率が高いだろう。中途半端に寝たきりになられてはやっかいだが、この調子だとそれもなさそうだ。

  だいたい、義母と一緒に住んでいたこと自体が間違いだった。康代は、ゆるやかな時間の中で考える。満足に歩けないくせに、2階に行きたがる、外に出たがる。一度行方不明になって皆で探したら、公園でのんびりとお茶を飲んでいたことがある。そして、詫びるどころか、逆に一生懸命探していた康代たちをなじった。夫はそんな時でも何も言わない。康代は爆発寸前だった。もし、こんな事故が起きなかったら、自分で義母の首を絞めてしめていたかもしれなかった。

 

  それにしても、枯葉に足を滑らせるなんて馬鹿げた最期だ。いつも口うるさく掃除の点検をしていたくせに、舞い込んで来た枯葉に気づかないなんて。

  ……でも、枯葉は一体どこから入ってきたんだろう? 今日は風もそんなに強くないのに。まったく偶然とは恐ろしく、美しい。康代は微笑む。見れば、落ち行く義母も微笑んでいるようで、もしかしたらそれは康代と義母が交わした最初で最後の笑みかもしれなかった。

  

  そろそろ終わりだ。心の準備をしなければ。さあ、息を吸い込んで――。

  康代の悲鳴が町内に響き渡ったのは、それからすぐの出来事だった。

  

  

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 2-3◆ 大介

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  佐々木大介はわめいていた。

  

  現実が自分のシナリオとあまりに違いすぎたためだ。本来ならば、靴をきちんと揃え、いじめたやつらの名前入りの遺書を自宅に置いて、さらにやつらの目の前で潔く飛び降りるつもりだった。

 

  両親は泣き喚き、自分を放っておいたことを後悔する。教師も同じだ。もしかしたら責任をとって辞職するかもしれない。自業自得で、小気味いい。特にいじめの主犯格の篠原の顔は見ものだろう。大介が落ちていく姿はきっとトラウマになって、彼の精神を破壊する。彼が金に物を言わせて仲間を集め、大介を追いつめるなんてことも、もう起こらない。今度追いつめられるのは、篠原の方。

 

  そんなふうに、復讐は完了するはずだったのだ。そのために何週間も管理の緩い廃ビルの屋上に通い続け、綿密に計画を立て、段取りを整えていた。

  それなのに今、遺書を書かず、靴も身につけたまま大介は落下していた。しかも、篠原たちどころか、道路には他の人間さえ見当たらない。やつらを呼び出すときに邪魔が入らないようにと、人通りの少ない場所を選んだのが裏目に出たようだった。

  

  これじゃあ、事故だと思われちゃうじゃないか!

  無駄死にだ!

  最後の最後までこんな……こんな!

   

  大介は力の限りわめき散らした。もし誰かが一部始終を眺めていたら、落ちているのにずいぶん余裕のあるやつだ、と思ったかもしれない。

  大介の頭の中は神が引き起こした偶然への怒りで一杯だった。

  納得がいかなかった。どうして今日に限って、屋上の柵が外れたのか。どうして今日に限って、地面にビニール袋が落ちていたのか。

  それらがなければ、今日もすんなり調査をすませて、家でゆっくりと計画を手直しすることができたはずだ。ビニール袋に足をとられて、錆びた柵ごと落下するなんて間抜けもいいとこだ。

  

  いつもと同じことをしていただけなのに、今日に限って……考えれば考えるほど、怒りがこみ上げてきた。けれど、そんな大介の怒りはお構いなしに、無情にもアスファルトはぐんぐんと近づいてくる。

  ちくしょうっ! 馬――

  見えない悪意に向かって最後の言葉を投げつける前に、聞いたことのないおかしな音と共に大介の意識は途切れた。

  

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3■ 堤孝也(1)

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 3-1◆ H2O

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  今日のテストは散々だった。堤孝也は、カバンを放り投げて、ベッドに横になった。昨日徹夜したわけでもないのに、すぐにでも眠ってしまえそうだ。眠ればしばらくは母親の追撃をかわす事もできる。もちろんまだ点数は出ていないけれど、問い詰められれば、半分は白紙で出したことを白状してしまいそうだった。

 「はぁー」

  最近、話すよりため息をつく方が多い気がする。高校受験の時はみんなそんなもんだ、と両親や教師も言うけれど、別に高校や大学に行ったからと言って楽しい保証なんてどこにもない。現に、ネットゲームで友達になった大学生は、学校がつまらなくてもう2年も行ってないと話していた。

 「そういえば今日はいるかな?」

  ここ最近、テスト勉強ということでインターネットが禁止されていた。パソコン自体は、お年玉をためて買った自分のものだけど、さすがにインターネットにつなげる回線までは、自分で用意できない。テストが終わるまでは、居間のパソコン以外はインターネットから切り離されていた。

 「おっ! つながるつながる」

  一応、母親は約束を守ってくれたようだった。もっとも、テストの結果を知ったらどうなるかわからないが。

  いつも遊んでいるネットゲームにIDとパスワードを打ち込む。IDは名前みたいなものだから、なんの変哲もなくtakaya14。パスワードはそれに誕生日をくっつけただけだ。クレジットカードなんかはパスワードに誕生日を使わないで下さい、と言われるみたいだけど、これはゲームだ。しかも、普通に遊ぶ分にはお金はかからなかった。有料なのは、特別なアイテムを買ったりする時のみだ。

  ゲームを始めると、孝也のキャラクターが街に出現した。キャラクター名はTAKAで、職業は戦士だ。このゲームは1人の冒険者になって、ネット上の人たちと協力しながら冒険を進めていくタイプのものでMMORPGと呼ばれている。ゲームの中で孝也は、双剣を持った屈強な男になって、敵をなぎ倒していく。現実であまり運動神経のよくない孝也にとって、仮想世界は理想の空間だった。

  友達として登録されたメンバーから、現在ゲームをやっている人たちを探してみると、ちょうどH2Oというキャラクターが点滅していた。さっきの2年間学校に行っていない大学生のキャラだ。ゲーム内での会話で、H2Oは孝也と同じ街に住んでいることがわかっていた。いくら見知らぬ人と一緒に冒険できるのがネットゲームの醍醐味とはいっても、同じ街の人間には親近感が沸く。話すネタも尽きることがなく、いつのまにか孝也にとってこのゲームになくてはならない存在になっていた。

  彼のレベルは高い。ほとんど一日中ゲームをやっているようで、孝也のキャラクターが一瞬でやられてしまうような場所にも散歩がてらに行くぐらいだ。よく、見たこともないアイテムをくれることがあった。

 『こんちはー > H2O』

  しばらくすると、返事が返ってきた。

 『おうっ! 久しぶりだな〜。今、街の南西の池にいるからちょっと来いよ。伝えたいこともあるから』

  孝也は、マウスをクリックしてキャラクターを走らせた。途中で、色んな人の会話がふき出しで見える。みんな顔文字を使っていて、見ていて楽しい。孝也も最初は使おうと努力していたのだが、どうにもその場にあった顔文字を使えなくて結局断念した。H2Oもそれを知っていて、孝也と話すときはわざと顔文字抜きで話してくれる。

  しばらく走ると、池が見えてきた。座っているキャラクターの中にH2Oの文字が見える。恰好は魔法使いだ。ただ、あまりにレベルが高いため力も戦士のTAKAより強い。一緒に冒険に行くと、素手でモンスターを殴り倒していた。

 『あー、ちょっとささやきモードにしてくれや』

  ささやきモードは、他の人に会話を聞かれないようにするシステムだ。

 『え? 何か聞かれたらマズイ話ですか?』

 『いや、別にまずいっちゅーほどじゃないんだけど、一応秘密にな』

 『はあ』

  疑問に思いながらも、孝也は少し楽しみだった。秘密の話って言われると何か自分が特別な人間みたいに思えてくる。

 『切り替えました! で、何なんですか秘密の話って』

 『ん……あのな、俺このゲームやめようと思うんだわ』

  一瞬、キーボードを打つ手が止まった。

 『え……冗談、ですよね?』

  このゲームが始まったころからいて、もはや主とも言えるような彼がゲームをやめるなんて信じられなかった。

 『いや、本気』

 『何でですか? なんか嫌なことあったんですか? 俺相談に乗りますよ』

 『あー、ちがうちがう。そんなんじゃないから安心して』

 『じゃあどうして!?』

  思わず詰問口調になってしまったことを、孝也は打ち終わった後で後悔した。H2Oにも何かしらの事情があるのかもしれない。自分の意見を押し付けるわけにはいかない。

 『すまんなー。いや、本当にすまんとしか言いようがない。特別な事情があるわけでもないしな……いや、一応これは特別な事情に入るのかな?』

 『教えてください』

 『うん。これはTAKAにも話そうと思ってたことだからな。だから、来るの待ってたわけだし。ただ、何から話したらいいかなー』

 『……そうだな。簡単に言うと、これより面白いゲームが見つかったんだ』

 『面白いゲーム?』

 『ああ。ところでTAKA……このゲーム、お前面白いか?』

 『そりゃあ……』

  面白いに決まっている、と打ち込みそうになって孝也はふと考えた。本当に面白くてやっていたんだろうか? そう言えば、時々ゲームが終わった後ものすごく空しくなることがあるような――。

 『おう、考えとる考えとる。ま、普段はもちろん面白くてやってるんだろうが、やっぱり仮想空間での出来事だ。別に金持ちになっても強くなっても、現実では何も変わってないわけだからな』

 『そんなこと僕にも十分わかってますよ』

 『そうか、なりゃいいいんだ。実は、お前にも俺のやろうとしているゲームを送ってやろうかと思っててさ』

 『僕に?』

 『まあな。なんていうか、お前にもピッタリなゲームだと思ってさ。どんなゲームか想像つくか?』

  話の流れから考えると、実際に金持ちになったり強くなったりするゲームだけど、そんなものがあるはずがない。金持ちっていうのは、競馬なんかで実現できなくもないけれど、実際に魔法が放てるようになるようなゲームを孝也は知らなかった。

 『競馬、なんてのは不正解だぞ。ギャンブルはまた別だ。第一、俺もお前も競馬につぎ込むほど金もってねーしな。そうでなきゃ、無料のゲーム延々とやってねーだろ?』

 『じゃあ……』

  孝也は考え込んだ。

 『現実に……?』

 『そう。もっとも、実際リアルで何かやるぐらいなら、俺はこのゲーム続けてるよ。めんどいしな。だから俺がやろうとしているのは……』

  何て言おうか迷っているような間。

  そして、続きの文章が打ち出される。

 『現実を変えるゲームだ』

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 3-2◆ 送られてきたゲーム

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 『とりあえず送るからさ。まあ、やってみろよ。詳しいことはまたメールでも送ってくれりゃ答えてやる』

  そういい残して、H2Oはすっと画面からいなくなった。

 「何だろう?」

  現実に変化を引き起こすゲームと言われてもピンとこない。ゲームで水をやったら現実でも花に水をやってくれるとか、そういうサービスでもできたんだろうか?

  孝也は考えうる限りのゲームを紙に書いてみたが、自分で見てもそんなに面白いゲームはない。ただ、最後に書きかけたゲーム名でふと思いとどまった。

 『殺し屋ゲーム』

  原理は簡単だ。現実に設置された銃とゲームが連動していて、ゲーム内で撃った人間は現実にも撃たれている。悪趣味な発想だと思うけれど、現実への影響力は一番大きいはずだった。

 「でも……そんなわけないよなあ」

  第一、銃なんかが設置されていたらすぐにばれる。一発撃った時点で――もしかしたら撃たないまでも警察に発見されて、ゲーム作者は間違いなく捕まる。それに、何のためにそんなゲームを作るのか意味がわからない。リスクがとてつもなく大きいのに、利益はほとんど得られそうにない。今回はH2Oや孝也のようなお金を持っていない人間を相手にするのだから、余計にそう思えた。

  しばらく考え込んでいると、メールの着信音が聞こえた。パソコンの画面の右下にH2Oの文字がポップアップしている。

  とりあえず、言われたとおりやってみるしかない。本物がここにあるんだから、悩むよりまずやってみることだ。

  容量が大きいせいか、ゲーム本体はメールに添付されていなかった。インターネットからダウンロードしてくるようだ。早速アクセスすると

 『ダウンロード完了まであと30分』

 の文字が画面に表示される。時計を見ると、もう6時を過ぎていた。

  そう言えばお腹も減ったな……考えると同時に大きな音が響く。ご飯を食べてからの方が落ち着いてゲームに集中できるだろう。何か忘れているような気がしながらも、1階からの母親の呼ぶ声に応え、孝也は悠々と階段を下りていった。

  やっとテストのことを思い出したのは、夕食の席について逃げられない状況が作り出された後だった。

  

  

 

  

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4■ 間隙(1)

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 4-1◆ 伸宏

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  佐藤伸宏は疲れていた。

  今日も病院、明日も病院、明後日も病院。高校の授業が終わると、向かう先はいつも一緒だ。部活にも行けない。友達と街に遊びに行くこともかなわない。

  授業でも体育は休みと決まっていて、他にも身体を激しく動かすことは控えるように言われていた。このままだと、高校生活最後のイベントである修学旅行さえも参加できるかどうか怪しい。

 「ふぅ」

  バスを乗り継ぎ、やっと病院まで行き着いた伸宏は思わずため息をついた。これからまた2時間以上の検査をこなさなくてはならないと思うと、毎日の事ながら頭が痛くなる。

  少し肌寒く感じてシャツを見ると、汗で湿っていた。今日はそれほど暑くはないし、歩いた距離もさほど長くはない。けれど、伸宏の体力を奪うにはこれで十分なのだ。そして、こうして毎日病院に通わなければならないのも、学校行事に参加できないのも、全てはこの体力のなさが原因だった。

  舌打ちしながら、受け付けに向かう。伸宏を出迎えてくれたのは、いつもと同じ若い女性だった。

 「おっ伸宏君ちゃんと来たねー」

 「そりゃ来ますよ。翔子さん、サボったら前みたいに何十回も電話かけてくるでしょ。携帯に同じ名前がずらっと並んでてビビリましたよ」

 「そりゃいいすぎだよ。せいぜいかけても10回ぐらいだったじゃない」

 「それでも十分すぎるぐらいですよ」

 「いやー、ごめんね。やっぱ心配でさー。一杯電話かけたら、そのうち嫌になって出てくれるかなって思って」

 「ストーカーじゃないんですから」

 「あ、やっぱ私そういう素質あるのかな? 自分でも最近怖くなっててさ」

  そう言いながら豪快に笑う翔子に、表向きは嫌な顔をしながらも伸宏は感謝していた。彼女だけではない。周囲の人々は、よくわがままを言う伸宏に対して驚くほど寛容で、けれども一度身体のことになると真剣な顔で伸宏を叱った。大切にされている――そうひしひしと感じられるのは、悪い気分ではない。

  けれど、その感情と今置かれている不自由な状況は全くの別物だ。大切にされているからといって、この状況を甘んじて受け入れるつもりは伸宏にはなかった。それに、光明も見えてきている。

  近い将来、東京の大学病院で治療を受ける、という話を伸宏は両親から聞いていた。決して富裕層にいるとは言えない伸宏の家庭において、現在の治療でさえ家計の大きな負担になっている。この上、大病院の治療ということになれば、どれだけ両親に迷惑をかけるかわからない。伸宏は最初、その両親の提案を突っぱねていた。健康になったとしても、帰るべき家庭が崩壊してしまっては意味がない。

  しかし、そのような心配も父親の

 「この前亡くなった、叔母さんの遺産が入ることになったんだ。お前のこと可愛がっていただろう? 叔母さんは結婚していないし、遺産は伸宏にって言っていたそうなんだ」

  という言葉によって、杞憂と化した。伸宏自身、亡くなった叔母にはよくしてもらった覚えがあるし、彼女の家が意外なほどの豪邸だったことも記憶に残っていた。

  家族にとばっちりがいかないのなら、何も迷うことはない。しばらく学校に行けなくなるのは辛いが、その後に待っている生活が今とは比べ物にならないほどよくなる可能性があるのならば、伸宏に断る理由はなかった。友だちと、走り、遊び、修学旅行にも行ける。そんな未来の生活を空想すると、どうしようもない疲れも少しは和らぐ気がした。

 「じゃあ、伸宏君。ちょっとロビーで漫画でも読んでて。今日ちょっと混んでて、斉藤先生もすぐには手が離せないのよ」

  見ると、確かにいつもよりロビーにも人が多い気がした。

 「何かあったんですかね?」

 「なんかね。近くに私立の伊藤医院ってのがあるじゃない。あそこの院長が事故にあったらしくて、そこの患者がこっちに流れてきている

 の。小さな病院だから、院長1人で切り盛りしてたとこがあったみたいで、病院は大混乱。入院患者の診察で精いっぱいだから、しばらく外来患者を受け持って欲しいって連絡が来て。まあ、院長の怪我の具合がわからないし、どのくらいの期間になるかわからないんだけど……さすがに断るわけにいかないからねー」

 「ふーん、大変なんですね。じゃ、ゆっくり待ちますよ」

  ごめんねーと詫びる翔子に手を振り、伸宏はロビーのソファーが連なる場所に向かった。ロビーには、大型の液晶テレビ、漫画や週刊誌が詰まった本棚に、幼児が遊べるような遊具を置いたコーナーがある。中でも、本棚は他の病院に比べて圧巻で、ちょっとした図書館と呼べるような代物だった。伸宏も待たなければならないときはいつも、この近くに座るようにしている。

  今日は混んでいるためにさすがに無理かな、と伸宏がその場所に目をやると、案の定全ての席が埋まっていた。5人が座り、もう1つ空いた席にも荷物が置いてある。けれど、その荷物を一目見た瞬間、伸宏はおやっと思った。

 「あの鞄は……もしかして」

  そう呟いて近づいた伸宏は、自分の想像が正しかったことを知った。鞄にぶら下がっているキーホルダーは、父親が海外で買ってきたもので、日本では未だ同じものを目にした事がない。

 「何で俺の鞄がこんなとこに……」

  それは、数日前に伸宏が紛失した鞄だった。中身を見ると、その時入れていたタオルや筆記用具などがそのまま入っている。

  最後に鞄を見かけたのは自宅だったために、てっきり大量にある本の中にでも埋もれてしまったのか、と思い込んでいた。その時は、探すのも面倒で違う鞄を用意し、そのまますっかり忘れてしまっていた。それが、こんな所で見つかるなんて――。

  けれど、現実は現実だ。ここに鞄があるのなら自分が置き忘れたのだろう。若干腑に落ちないところがありながらも、伸宏はそう思うことにした。それに、よくよく考えれば、鞄が席取りをしていてくれたとも言える。混雑するロビーでいつもと同じ場所に座れるのは幸運だ。

  鞄をよけて、悠々と席に座る。

  その時だった。

  伸宏の全身からフッと力が抜けた。手がだらんと垂れ下がり、足もまるで動かない。首も赤ん坊のように座り悪く崩れた。

  ただ、意識だけが残り、今の状況を認識していた。

  ああ、これはまずい! まずいぞっ! 

  心の中で叫び声がする。実際には声も出ないのだけれど、何かしなければ、という思いが渦巻く。けれど、何度身体に命令を送ろうとも、ピクリとも反応は起きなかった。それどころか、何か下のほうから冷たいものが這い上がってくるのが感じられて、伸宏はゾッとした。一度事故で同じような感覚を味わったことがあったから、よく知っていた。全身から血が抜けていくような、これは――

  

  死の感覚だ。

 

  どうして自分が死ななくてはならないのか、伸宏には全く想像がつかなかった。

  ただ、今日は何か変だった。

  事故。混んでいる病院。見つけた鞄。空いた席。

  得体の知れない意思。自分は巻き込まれたのではないか? 伸宏は自問した。強烈な悪意が自分を破滅へと追い込んだのでは――

  けれど、答えを導き出す前に、辛うじて残っていた意識は風船が割れるようにはじけて消えた。最後に伸宏の脳裏に浮かんだのは、修学旅行で行くはずだった京都の寺の風景だった。

 

  

  

 

  

  

 

 

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5■ 堤孝也(2)

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 5-1◆ ゲーム開始

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  結局、夕食でテストの話題が出てきたとき、上手く逃げ切ることができなかった。半分は解けたと言い切ったが、それでも叱られた。実際のところ半分しか書いていないだけだから、結果が返ってきた時には、さらなる恐怖の時間が待ち受けていることになる。孝也は、1週間後の返却日のことを思うと憂鬱になった。

  そんなわけだから、パソコンまで禁止にならなかったのは、本当に幸運だったと言うしかない。学校の宿題を調べるのに使うんだ――という言葉を鵜呑みにしてはいないと思うが、ひとまず安住の地は壊されなかったことになる。

  2階に上がると、すでにダウンロードは終わっていて、デスクトップに実行ファイルができていた。 メールには注意書きがあった。どうもこのゲームは会員制らしく、H2Oの弟がもらうはずだったIDを孝也が代わりに使うことになっているらしい。申し訳ない思いもあったが、それ以上に会員制という秘密のにおいに孝也の胸は高鳴った。

  早速ハードディスクにインストールする。ファイルはネットゲームとしては、わりと大きい方だ。インストール画面には、『COMBO』と書かれた文字が点滅している。ゲームタイトルにしてはけっこうシンプルだ。あまりに単純な言葉のため、インターネットで調べてみても、このゲームの話は見当たらなかった。

  しばらくすると、『インストール完了』の文字が画面に表示された。いよいよだ。できたての秘密基地に入っていくように、孝也の頬は緩んだ。

  デスクトップにできたアイコンをクリックすると、画面が真っ黒に切り替わる。電源を切った時の黒色とは少し違う。目を近づけてみると、黒の上に薄い赤色が塗られていた。

  さらによく見ようと目を近づけたとき、突然ピアノをでたらめに弾いたような音楽と共にタイトル画面が浮かび上がってきた。赤く刻まれたタイトルは、背景に溶け込んでいるように見えた。タイトルの下にはただ一言

 『LOGIN』

 と書かれている。

  クリックすると注意書きが現れた。よくあるやつだ。後で訴えられたりしないようにと必要のないことまで書いている。ただ、最後に赤文字で強調されているところだけが、少し変だった。

 『このゲームをプレイする権利を他の人間に譲渡してはならない』

  これは孝也にも理解できた。もっともH2Oの弟のIDをもらっている時点で立派に違反しているわけだが、このぐらいは他のゲームでもよくやられている。けれど、次の2つの注意書きは今まで見た事がなかった。

 『このゲームのプレイ期間は1週間とする。それを過ぎてプレイすることはできない。また、それ以前にやめることもできない』

 『このゲームについて公衆の面前で話すことは極力避けなければならない』

  そして、最後に『以上の条約に違反したプレイヤーは、相応の罰則を受けるものとし、場合によっては強硬措置もとられる』と締めくくられていた。

  おかしなルールだが、雰囲気作りとしては悪くないと孝也は思った。最近、ホラーゲームをプレイしたりする時に、わざとにこういうルールをつけているものを見かけたことがあった。もちろん中身はただのホラーゲームなのだけど、プレイヤーはもしかしたら……と思いながらプレイするのだ。そう書くだけで怖い雰囲気に浸れるなら、書いたほうが得だ。

  メールで送られてきたIDとパスワードを打ち込むと、男の子のキャラクターがポンッと出現した。すでに名前が入力されている。これは……『工藤亮』? なんだか本名のようだった。H2Oの弟の名前かもしれない。そうすると、H2Oの本名は工藤賢治、健太郎あたりだろうか?

  そんなことを考えながら、画面下に表示された『GAMESTART』の文字を押すと、今度は画面が白く光った。

  そして、薄れていく光の中から街の全景が浮かび上がってくる。

  どこかで見たことがある。

  やがて、街の中に点々とキャラクターが出現し始める。それと共に名前も表示された。

  孝也は眉を寄せた。

  やはり、どこかで見たことがあった。あの通り。あの公園。あの店。

  そしてあれは――?

  

  『堤孝也(中学3年生)』

  

  ポツンと表示された名前に、孝也の目が吸い寄せられた。

 

  ――ああ、これは僕だ―

  

  ――そして、これは僕の街だ――

 

  目を見開いたまま、孝也はパソコンの前に座り続けた。

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 5-2◆ システム

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  孝也はしばらく黙って画面を見つめていた。

  実在の名前が使われていること、それも自分の名前が使われていることに、孝也は唖然としていた。こんなゲームは見たことがない。というよりも――

 「あり得ない……」

  『現実を変えるゲーム』というH2Oの言葉が思い出される。嫌な予感を抱えながら、孝也は自分の名前がついているキャラクターをクリックしてみる。

 『名前:堤孝也』

 『年齢:14歳』

 『学校:鳩見中学校』……

  ずらりと表示された情報は大量で、しかも全て正確だった。中には、家族しか知りえないような情報まで含まれている。プライバシーなんていう言葉は、このゲームに存在しないようだった。

 「あり得ない」

  孝也は再び呟いた。

  画面に表示された地図は写真を少し加工したもののようだった。孝也が試しにマウスを動かして自分の学校をクリックしてみると、ズームされて教室の窓まで見えるようになった。上空から撮影した写真を用いた地図は、インターネットでもよく見られるもので、それほど珍しくはない。けれど、インターネットのそれは外側だけ。あくまで飛行機で高いところからまとめて撮った写真だ。

  限界までズームした地図をもう一度クリックすると、学校の屋根が取れ、中が見えた。さらにクリックすると、1階に切り替わる。

  教室も廊下もトイレも玄関も、全てが精密にできたミニチュアのようだった。違うところがあるとすれば、どこにも人がいないことぐらいだ。周りに闇は訪れていないのに、学校には生徒も教師もいない。まるで全員が誘拐されてしまったかのようにみえる建物は、無機質でリアルな分、不気味だった。

  孝也はまだ信じられない思いで、様々な場所をクリックしてみた。街の外れの方は多少粗くはなっていたものの、ほとんどの場合建物の内部まで表示される。

  キャラクターは、30人ぐらいいた。街の人口は20万人を超えているはずなのに、何故それだけの人しか表示されていないのか……。もちろん、全員を登場させるのが無理なだけだったのかもしれないが、孝也にはそれにも何か意味があるように思えてならなかった。

  そして、その中に自分が含まれているということは――。

  プログラムで再現された精密な街と、大量の個人情報。さらには、H2Oの意味ありげな台詞。全てが、想像を掻き立てる。それも嫌な方向に向かって。

 「確かめなきゃ」

  孝也はメール作成ソフトを起動させた。

  これが、

  何のためにあるゲームなのか?

  何をするゲームなのか?

  そもそも……ゲームなのか?

  確かめるためにやることは1つしかない。

  孝也は宛先にH2Oのアドレスを入力し、全ての疑問を打ち込むと送信ボタンを押した。

   

  

 

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6■ 間隙(1)

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 6-1◆ 健介

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  木村健介は逃げていた。

  逃げることで全てが解決されるとは思っていなかったが、じっとしていることもできなかった。自分に降りかかる『偶然』が恐ろしかった。それに、逃げていることで行動がルーチンワークになる危険が少なくなる。これは重要だった。いつまでも同じ場所に留まっているやつらは一番最初に餌食になる。

  会社の仕事は放り投げてきた。そもそも、あまり重要な役職ではなかったから簡単に代替がきく。健介の担当していたホームページのデザインは、情けない話だがバイトがやっても十分にこなせるようなものだった。たぶん、会社でも健介のような厄介者を苦労して探すことはないだろう。少し悲しくもあったが、今はそのような感傷に浸っている暇はない。

  とにかく逃げることだ。ただ、貯金を全額引き下ろしても、一生逃げ続けることなど出来ない。どこかで区切りをつけなければならない。ゲームの終わりを待つのも1つの手ではあるが、そこまで生き延びている保証などない。

  あるいは、海外へ行けばこの偶然の連鎖から逃れられるかもしれない。今まで得た情報を信じるのならば、それほど広い範囲をカバーしているわけではないようだ。圏外というものが必ずある。

  ただ、海外へ逃亡するにしても、まだやり残していることがあった。

  親の顔を一目みたい。

  いつ日本に帰ってくるかわからないのなら、そしてもしかしたら海外でさえ、この魔力から逃れられないのなら、どうしても一度両親に会っておく必要があった。まだ結婚していない健介にとって、家族と呼べるものは両親しかいない。何も親孝行はできなかったが、せめて一言感謝の気持ちを伝えたかった。死を身近に感じたせいで、少し弱気になっているのかもしれなかった。

  いつのまにか、実家へ帰る時にいつも利用する駅の前まで来ていた。

 「○○線は7番ホームから16時40分の発車になります――」

  時計を見ると、16時10分。まだ時間はある。

  予約していた切符を買ってホームに出ると、列車はもう到着していた。健介はほっと胸をなでおろす。偶然が関わってくる場合、「足がもつれて、偶然線路に落ちた」なんていうのはよくあるパターンだ。けれど、列車がもうホームに入っているのならば、それも成り立たない。 

  切符のお釣りでもらった小銭で、コーヒーを買う。さすがにあり得ないだろうが、中に毒を入れられていることを考慮して、いつもの銘柄とは違うものを買った。

  コーヒーの缶を片手に指定席の乗り場へ向かう。7両あるうちの後ろ2両が指定席だ。いつもは自由席に乗るところだが、席を取り合う人ごみに埋もれるのは自殺行為だ。何があるかわからない。

 「あのー、すみません」

  全ての準備を終え、さあ乗り込もうと言う時に、背後から声が聞こえた。振り向くと小柄な老婆が目をしょぼつかせて立っていた。

 「××町に行くのはこの列車でいいんでしょうかねぇ」

  少し躊躇したものの

 「いいえ、こちらではないですよ。3番ホームの方になります」

  と答えた。ここで老婆の質問に答える、という行動はまったくのアクシデントのはずだ。つまり、誰にも予測できないことになる。悪意ある偶然をかわすには、ちょうどいい材料だ。

  老婆は深々と頭を下げてお礼を言うと、よろよろとおぼつかない足取りでホームを渡る階段へと向かっていく。

  あのままで大丈夫か? 健介は、その後姿を見て不安に思った。皺のよった老婆の顔が、数年前に死んだ祖母と重なる。

  気が付くと、健介は老婆に走り寄っていた。

 「あんれ、どうなさったんです?」

 「いえ、まだ時間がありますから。3番ホームまでお送りしますよ」

 「それは、助かりますわあ。なんせ、最近目がめっきり見えんくなってきたもので」

  老婆はクシャリと顔を歪ませて笑った。

  3番ホームまで老婆を届けるのは、確かに重労働だった。けれど、ここで見捨てて老婆が怪我でもしたら、それこそ一生その嫌な過去を背負い続けなければならない。健介の心は晴れやかだった。

 「いやあ、ありがとうございました」

 「いえ、とんでもない。では、失礼します。次の列車に乗らなければいけないもので」

 「ああ? 駅員さんじゃなかったのですか?」

  健介は苦笑した。

 「いいえ違いますよ。では」

  しかし……でも……とブツブツ呟きながら首をかしげる老婆を置いて、健介は元いたホームへ走った。さすがに時間が迫ってきている。

  途中、人だかりができていた。どうやら、マスコットがやってきているらしい。子供連れだけでなく、多くの客が周りを囲んでいた。しかし、そのおかげか目的のホームに人はいない。

 「よし! いけるっ!」

  近くのドアまで走る。

  けれど、後一歩という所でドアは無情にもガシュンと音をたてて閉まってしまった。車掌に合図を送ろうかとも思ったが、あまり急ぐ必要もない。次のを待てばいい。

  以前からよく駆け込み乗車をしていていた経験から思わず走ってしまったが、よくよく考えるとドアに挟まれるという危険だってあったわけだ。それを免れただけ上等だ。

  駅内は相変わらず、マスコットで盛り上がっているようだ。まだ時間はあるのだから少し見てくるか、と健介の足もそちらに向きかけた。その時、

 「――あれ?」

  動かない。 

 「ちょ、ちょっとこれは……」

  下を見ると、皮のカバンが挟まれていた。引っ張ってもとれず、紐が絡まって身体からも離れない。

  冗談じゃない。健介は急いで車掌を探したが、どこにも見当たらない。それどころか、駅内のイベントの喧騒で、健介の声も届いていないようだった。

  列車がゆっくりと動き出す。

 「すみません! 止まって下さい! 止まって下さい!」

  ホームにいる数人の客にもあらん限りの声を振り絞って、助けを求めた。何か変だ、と気づいたのはその時だ。少なくともホームにいる人間には声が届いているはずなのに、こちらを一瞥しようとさえしない。駅内の客と違う空気を身にまとっている気がした。

  偶然? そうだ、これなら偶然何も見ていなかったと言うことができる。彼らは何もしないためにそこにいるんだ。

  自分が相手にしてきた敵があまりにも大きいことに気づき、健介の身体から力が抜けた。

  数秒後、『偶然』事故のせいで線路側に傾いた看板に激突し、健介の逃亡は終わった。